満月のアリア (12) マイセンの竜 2

2021/12/02

二次創作 - 満月のアリア

 ロジーナの声に、ルードビッヒは振り向いた。そして無言で彼女の顔を見つめる。
「驚くほどの事では、ございませんわ。昔の馴染みで、風の噂が耳に入りますの。犯罪帝国ネクライムの総統が2代目に変わったとか、その2代目が死んだとか、蘇ったとか。その男の名前とか」
 視線を落として話す白髪のロジーナは、メイド時代の彼女では無かった。ある時期、確かに闇の中に居た女の顔をしていた。
「切りたくても切れない過去は、そうやって教えてくれますの」
 顔を上げて、ルードビッヒに目を合わせた。
「更生したお前に、頼む用など無い。カップと共に穏やかに老後を生きろ」
 彼は、総統としての顔になる。
「では何か、お知りになりたい事でも? 昔の話とか」
「放っておけ。気にするな」
 そう口に出してから、しまった、と気づく。昔馴染みの気やすさで、ふと口に出てしまった。放っておく事案があり、それを気にするな、と言っているではないか。語るに落ちている。何というザマだ、と悔やんでも発した言葉は消えない。ロジーナも言葉の意味に勘づいたが、あえてそれを突きはしなかった。しばしの沈黙の後、ついに彼は老女から視線を外して、口にした。
「母性とは、何だ?」
「え?」

 こんな事を、ひとりきりのロジーナに聞くのは残酷だったか。さりとて、他に尋ねる相手もいない。
「女が、母性で私の子を産むそうだ」
 こんな嬉しい答えが返るとは思わなかった。彼女は、満面の笑みで祝福する。
「まあ、おめでとうございます。アドルフ様!」
「めでたいもんか。私に子など、要らぬ」
 その瞬間、彼女の顔が険しく変化した。
「なんて事をおっしゃるんです! ご自身の子供でしょう」
「ネクライムの総統に、子など要らぬ。⋯⋯女は去った」
 その答えに口を大きく開けて、目を見開き、ロジーナはルードビッヒを凝視した。
「まあまあ、なんてひどい男にお育ちになってしまわれたんですか。あなたがどう生きようと、子供は子供ですよ。男としての責任もお持ちで無いなんて、なんて情けない。はらんだ女を捨てるなんて、最低のクズ男ですよ!」
 彼女は、全女性の代表でもあるかように、男を非難する。もはや、ロジーナにとってルードビッヒはネクライム総統では無く、昔のアドルフ坊ちゃんだった。今の世界に、彼をこうしてなじれるのは、彼女だけのようである。
「捨てたわけではない。女が去っただけだ」
 眉をひそめて言い訳のように答えたが、それは結果だ。あの時、ミレーヌが産むと言わなければどうであったろうか。堕胎しろと告げ、嫌ならここから去れと命じたに違いなかった。彼が理解できないでいるのは、女が自分より母性を選んだ、という事だ。

「それは、アドルフ様が子供を望まない事をご存知なのでは。それでも産みたいと思われたのでしょう。⋯⋯あなたの元を去ってまで」
 少しトーンダウンしたロジーナに、ルードビッヒは、ため息をつく。
「母性本能というやつは、わからんな。そんなもので子を産みたいと思うとはな」
 この貴公子は何を言っているのだろう、ロジーナはあきれるばかりである。10代の少年を叱るように言葉に出す。
「アドルフ様、何を寝ぼけた事、おっしゃるんです? 女が子供を産みたいと思うのは、愛する男の子供を残したいと思うからです。それが普通です! その結果が母性本能ですわ! そんな事もおわかりになりませんの」
 結構な言われようであるが、そう言われた所で、ルードビッヒに思い当たる節は無い。ミレーヌの口から、そんな言葉を聞いた事も無い。彼は冷静に応える。
「私とあの女の間に、愛など無い。そんなものは無い」
 ロジーナは、ほう、と息を吐く。
「その女性には、あったんですよ、きっと。アドルフ様は、誰かを愛した事はないのですか?」
 それは、彼の心の奥に刺さる問いだ。言葉はヒヤリとした氷の刃になって、彼の中の溶解しない感情を貫く。
「そんなものは無い」
 彼は、無表情で、そう答える。無言になったロジーナは、しばらくの間をおいて、うつむきがちに、口を開いた。
「私、子供がおりましたの」
 無論、初めて聞く話であった。

「男の子で、3歳まで一緒でした。でも私が刑務所行きになって、子供は施設へ。しばらくして、施設から連絡がありました。養子に欲しいと希望があったと。母親がこんな状態でも、養子を望んでくださるご夫婦です。悩む事なんてありません。刑務所暮らしの母親より、普通の家庭に育った方が幸せです。私は子供を養子に出しました」
 恐らくは、誰にも語った事のない事情であろうと思われた。あるいはルードビッヒの父は知っていたかもしれないが。
「子供の父親は、どうした」
 彼の問いに、ロジーナは顔を上げた。
「私が、刺しましたもの。それで刑務所に行きました」
 なかなかの返答である。
「死んではいません。どこかに生きていると思います。でも年だから、もう死んでるかも。それでも子供を産んだ頃は幸せだったんです。だから、子を産む事の意味を知っています。養子に出した子は、このシュトゥットガルトに住んでいました。今はもう、居ないでしょうね。でも、もしかしたら、まだ居るのかもしれない。つまらない希望です。会う事は望みません。ただ、同じ土地にいたいと思うだけです。私はこの地を離れる事ができません」
 ロジーナは長年過ぎても、手放した子供を思えば涙が出る。覚えているのは、小さな3歳の子だ。今、道ですれ違っても、息子とわかるはずも無い。それでも彼女には、この地が大切であった。執念とも、情念とも映る老女の感情は、ルードビッヒに母性愛の意味を伝えた。

「誰かを愛するとは、そういう事ですわ」
 ルードビッヒとロジーナは向き合っていたが、互いに無言になった。相入れない「愛」に対する認識は、無言にさせるしか無かった。
「帰るぞ。もう用は無い」
 彼は、再びロジーナに背を向け、ドアに向かう。
「アドルフ様、もしまた、私が必要と思われたら、おいでください。こんな年寄りですけれど」
 ロジーナは、ルードビッヒの背中をいつくしむように、眺めた。残りの人生、お会いするのは、これが最後かもしれない。
「安穏に暮らせ。お前こそ、困った時には知らせろ。ドイツのロジーナからの連絡は取り次ぐようにしておく」
 彼は、振り返る事なくドアを閉めた。
 ロジーナは、閉じられたドアをしばらく見つめていた。愛は喜びと哀しみと両方を持っていますの。あなたは、それを拒絶するんですね。どうか女性の産む子供が、あなたに愛の意味を教えてくれますよう、私は祈っていますわ。
 彼女は、竜のカップを愛おしそうに持ち上げると、台所で洗い始めた。



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