ネオ・サッポロ事件の翌日、クライドもナツミも、自分のデスク周りを整理していた。部署異動から、わずか8日目の事だ。2日後には、それぞれ元の部署に戻る。そのための片付けだった。
「あーあ。結局、ミレーヌ様が戻られて、私達2人とも出戻りかぁ」
もう少し時間があれば、上手くルードビッヒ様のベッドに潜り込めたのに。なんでミレーヌ、戻ってくんのよ。総統は年増がお好みなの? などと、ナツミは勝手な想像をしながら、悔しがった。
「だが前より役職は少し上がったろ。それなら納得できる。もう少し活躍する時間は欲しかったがね」
クライドも残念そうに口に出した。総統は、女に甘い所があるようだ。その昔のウエスト・ネクライムのライサンダーも女だったと聞く。結局殺す事無く、ライサンダーは警察に逮捕された。自分の首を狙ってくる者を、女だからと生かしておくのは理解に苦しむ。自分なら、さっさと殺すだろう。
すでにライバルでは無くった男を見て、ナツミは考える。この男、この先出世しそうね。下戸なのは残念だけど、頭もルックスも悪く無いわ。とりあえずルードビッヒ様はあきらめて、こっちにしようかしら。ナツミは、ターゲットを変更した。
「ね、お酒はダメでも、今夜か明日の晩か、ご飯でも食べに行かない? 出戻り残念会として」
「まあ、そうだな。ちょっと豪華なメシくらいなら、残念会にいいかもな」
色良い返事があった事で、ナツミは「よしっ!」と心の中でガッツポーズした。
ミレーヌは体の予後のため、ジタンダに運転させ、ネオ・トキオの産婦人科を訪れた。結局、喜びを持って産婦人科を受診する事は無かったなと思うと、心が沈んだ。
部屋に戻ってベッドに横になる。ふと、無意識に涙がこぼれもする。ドアにノックがあった時は、涙を拭いて、顔を整えた。
「ミレーヌ様、お体は大丈夫デスどすか。ルードビッヒ様から、お届け物でございマスデス!」
ジタンダが嬉しそうに小鼻を膨らませて、平らで頑丈な包みを持って部屋に来た。壁ぎわに置かれたライティングデスクの上にそれを置く。
「何かしら?」
「渡せばわかる、とかおっしゃっるんどす。今、お開けしますデス」
と、ジタンダが上機嫌で幾重にもなった包みを開いた。開いた包みの中から、封筒と額に入った小ぶりの絵が出てきた。ミレーヌの目は大きく開き、吸い込まれるようにそれを見つめていた。
「⋯⋯ジタンダ、ルードビッヒに、私がとても喜んでいたと伝えて。それから今宵お待ちしてます、とも。そうね、久しぶりにお酒が飲みたいわ。あの人が来る前に、適当にチーズとワインを選んで運んでおいてね」
目を細めた彼女の言葉に、いくらニブいジタンダでも、その意味はわかる。ヘイっっ!と嬉しそうに答えると、部屋を出た。今宵、だって。あの人、だって。やりますなあ、ルードビッヒ様。
彼が心酔するルードビッヒと、ある種、姉のように慕うミレーヌが結ばれているのなら、こんなに幸せな事はない。金髪の綺麗な女の絵デスどすが、ミレーヌ様は大変お気に召したご様子どす。あれ? 金髪の女、ミレーヌ様。何か思い出しそうになったダスよ。なんだっけ。ああ、それよりも早く、お伝えしなくてはなりませんデスダスどす。ジタンダは熱いメッセージを伝えるために、主人の元に急いだ。
ひとりになったミレーヌは、絵と共にあった封筒を開ける。ルードビッヒからのメッセージカードが入っていた。
『ロシアの風景画家で去年、病死した。初期の作品で、アトリエに残っていたそうだ。A.v.L』
カードには、そう書いてあるだけだ。彼は、どこでこの絵を手に入れたのかと不思議に感じた。昨日の今日で手に入る物では無いだろう。そもそも自分がこの絵を探していた事をどこで知ったのか。手品のように現れた絵の事は、後で尋ねてみよう。
サイズは10号程度か、両手で絵を起こし、眺めてみる。
「お母様、お久しぶりね」
絵の中の金髪の女は、画面のこちらに微笑みかけている。その顔は、ミレーヌの知っているような、知らないような顔に思えた。確かにこうして見れば、その女は自分に似ていた。ただ、その笑みは、彼女の知らない笑みだ。
ぼんやりとした記憶の中の母は、この絵とは印象が少し違うように感じる。絵の女は、はにかみと甘さのある笑みを浮かべていた。そんな表情は、記憶のイメージとは違っていた。それは我が子に向ける笑みでなく、男に向ける笑みではないかと思えた。
絵に描かれたサインは「C.K.Caжинова 2026」とある。C.K.サジノヴァだろうか。おそらく、この画家が母の「親密な友人」と確信できる。母が死んだのは、2025年の11月。2026年は、母の死後である。描き初めがいつかはわからないが、交通事故で重症だったその画家は、退院した後に絵を完成させたという事か。
自分の飲酒とスピード超過の運転で事故を起こし、同乗した母を死なせた男、それはミレーヌにとって憎むべき対象であった。それでいて、男が母の絵を残したかもしれないと、ずっと彼女は探してきた。
男のアトリエに残っていた絵。それは単に売れなかったからか、あるいは画家が手元に残しておきたいと思ったからだろうか。
風景画家、死後にアトリエに残る母の絵、その符号は「画家が母を愛していた」可能性を示した。母のツバメのような売れない画家は、それでも母を愛していたのではないか。自分が彼女を死なせてしまった事への罪悪感から、風景画家ではないのか、そんなロマンティックな仮説ができた。この画家が、母を想い、長年アトリエにこの絵を留め置いたのなら、それは彼を許す理由になる。
この人は、お母様を愛していたのだろう。お父様からの愛情は無かったが、この画家は彼女を愛していた。そして笑みを浮かべたお母様も。この絵は甘いひと時を現している。少なくとも、この時、母は幸せであったと思われた。想像は、ミレーヌの目頭を熱くさせた。
サジノヴァ、あなたを憎むのは、やめるわ。彼女は母に微笑んだ。その贈り物は、長年、重苦しく心の底に残っていた感情をやわらげた。
「ジタンダをメッセンジャーに使うのは、どうかと思うが」
夜、部屋を訪れたルードビッヒが、ミレーヌに苦言を呈した。しかし、そう怒っているようでも無い。少し口の端を上げていた。
「皆の前で抱き上げたお返しよ」
ふふっと笑った彼女は、髪色以外は、いつものような顔に戻っていた。
「嘘よ。お礼は電話じゃ無くて、直接にしたかったの」
彼の首に両手を回し、その顔を引き寄せると唇を合わせた。呼応するように、彼の手も彼女の体を抱き入れた。離れていた時間を埋めるように、舌が絡み合う。男は、頭の芯がじわりと痺れるような恍惚感に浸る。唇を離した女が、熱を帯びた潤んだ瞳で口にした。
「絵の、お礼よ」
「なかなか情熱的な、礼だ」
ふふふ、と笑ったミレーヌは、伏せ気味の瞼で、
「体が戻るまで、ひと月くらいかかるようよ」
と、伝えた。
「ひと月か」
「ええ、ひと月。だから、今夜はお酒にだけ、付き合ってくださる?」
男の腕からするりと抜けた女は、ジタンダに運ばせたワゴンの上のワインへ手を向けた。軽く首を傾げ、笑みを絶やさずに、なかなかの生殺し期間を宣言する。
確かに、傷ついた女の体を養護する時間は必要だろう。だが知った上での、あの「お礼」か。まったくこの女は、と彼は口元を緩め、彼女の顔を軽く睨んだ。
ならばこちらも応戦すべきであろう、男は諸刃の剣を覚悟する。
「その前に、もう少し礼を受け取ろう」
彼は女の背に腕を回し抱き寄せると、再び礼を所望した。
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