およそ40分前の事である。ネオ・サッポロの中心地から南に離れた住宅地、こじんまりとした平屋(ひらや)の店舗、ドウナイ銀行北が原(きたがはら)支店に、ひとりの男が訪れた。じきに午後1時半だ。月曜日、昼の混雑が落ち着いて、次に混み合うのは2時過ぎの、ちょうど客の少ない時間帯と言える。
入り口ATMスペースを通過して入ってきた男は、ハンチング帽に黒ブチ眼鏡にマスク姿。冬場のインフルエンザが流行っている所なので、不織布マスクをしていても、不自然では無かった。寒さの厳しいこの地では、防寒のための帽子もおかしくは無い。マスクで良くわからないが、目元のシワや肌を見れば、年の頃は40代後半から50代だろう。
銀行カウンター前の空間には、2つの長椅子にマガジンラックを間に挟んで繋げた状態で待つスペースが、前後に2列あった。適当に間を空けて、老若男女が手持ち無沙汰に3人ほど座っていた。2つあるカウンター窓口のひとつには、80代ほどの老人が中の女性行員と話しながら、書類に記入している。
空いているカウンター窓口に近づいたグレーのコート姿のその男は、手に持っていた黒いナップザックをカウンターの上に置くと、すみません、と中の若い女性行員に声をかけた。外から入ってきたばかりだから、皮の手袋をしたままだ。
「はい、何でしょうか」
営業スマイルで応対した彼女の顔は、一変した。男はナップザックから取り出したリボルバーの銃口を彼女に向けて、撃鉄を起こし、怒鳴ったのだ。
「金を出せ! 早く、これに入れろ!」
途端に、待合席に座っていた若い女からきゃーっ、と悲鳴が上がる。左横のカウンターにいた老人は、慌てて後退り、他の客がいる方に体を動かした。カウンター内にいた6人ほどの行員達は、凍りついたようにそのままか、あるいは立ち上がる。最初に犯人に応対した女性行員は、震えが止まらない手で、こっそりとカウンター内、自分の机の下の緊急ボタンを押した。
「誰も動くんじゃねえ!」
男は今度は客の方を向いて、銃口を向ける。最初に悲鳴を上げた若い女は、もう何も言えなかった。そして客の中に、マスクをしたミレーヌがいた。
午前中に契約を済ませた物件は、この近所のマンションだ。専用駐車場付きの部屋を求めると、中心街から少し離れた場所になった。免許取得や車の購入は後になるにしても、駐車場付きの部屋は押さえておかなければならない。
そしてクレジットカードを作るにも、まずは銀行口座だ。新たな名義で口座を作るために、ここにいた。住む部屋の近くの支店であり、地方銀行である。ネオ・サッポロに着いて、駅前の銀行で口座開設しなかったのは、全国規模のメガバンクだったからだ。メガバンクは防犯カメラに映った自分が、いつどんな場面で再生されるか想定できない。
不必要に、店舗内の銀行員に名前と顔を覚えられたくは無い。その点、この店舗は都合が良かった。地銀なら少しはマシだろうという、長年の染み付いた裏稼業の本能的なものかもしれない。風邪にかこつけた、不織布のマスクもしている。
「早くしろ! 金を入れろ!」
銃を手にした男は、いきり立った。その時、店内と自動ドアで隔てられたATMコーナーの、外扉の自動ドアが動く音がした。そちらに目をやった男は、あわてて店外に逃げていく客の後ろ姿を目にした。
「バカヤロウ! さっさと金を入れないと、客を殺すぞ!」
その声に、さすがに行員達も焦った。カウンターの一番奥の机に座る支店長は、テレビや新聞、週刊誌に掲載された『ドウナイ銀行強盗、客死亡』の悪夢を頭に描いた。もちろん彼も机の下の緊急ボタンを押してはいるが、対応のマズさで客が死んだとなれば、銀行の名は地に落ちる。世間の非難は犯人ばかりか、銀行にまで押し寄せる。人殺し、と書いた紙が店舗の外に貼られる想像までできた。
「早く、金を入れるんだ!」
支店長は裏返ったような声で、他の行員に指示する。日頃から強盗用に準備されている、ナンバーの控えられた帯封付きの札束が出され、男のナップザックに入れ始める。そのサイズから大した量でも無い、せいぜい2000万ダラーも入ればいい所だ。もっとも1億ダラー出せ、と言われても、こんな小さな店舗にその用意は無いのだが。その間、犯人は客の方に銃口を向けたままだった。もうすぐ、もうすぐ犯人は逃げ、この状況から抜け出せる、その場の全員が願っていた。
その時、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。それが段々と近づいてくるのが、わかる。パニックになった犯人は、誰に言うとも無く、叫ぶ。
「シャッターを閉めろ! 早くだ! 客を殺すぞ!」
若い男性行員のひとりが、カウンター内から外側に出た。入り口ドアの横にあるシャッターの電動開閉ボタンを、意を決して、押した。ガタガタと金属音を立てて、シャッターが降りてくる。誰も、何も、言えなかった。ガタン、と床にシャッターが当たる音がして、店舗外側のシャッターは、閉まった。
やがて聞こえていたサイレンは、店の前の道路を通り過ぎて行った。犯人の男は、はあっ、と安堵の息を吐く。そうだよ、どこかで事故でもあってパトカーが通り過ぎただけだ。お巡りが来るには早すぎる。パトカーの音、と言うだけで焦ってしまったが、何の事は無い。男は、カウンターに置かれた金の入ったナップザックを取り、その口をしっかりと閉め、背中に背負うと、
「シャッターを開けろ」
もう一度、若い行員に命令した。良かった、犯人は逃げてくれる、と行員は喜んでボタンを押した。しかし途中まで開いたシャッターの奥、ATMコーナーの向こうはガラス製の壁と出入り口、視界に入る駐車場にパトカーが、あった。そのドアは助手席が開けられ、警官が出ようとしている。運転席の警官は何やら無線を使っていた。
「閉めろ! 早く閉めろ! 開けるのはやめだ!」
大声で犯人は叫んだ。無論、銃口はスイッチを押す行員に向けられている。再び、シャッターは下まで降ろされた。
こうして銀行人質立てこもりは、完成した。
0 件のコメント:
コメントを投稿