満月のアリア (14) 時計 2

2021/12/06

二次創作 - 満月のアリア

 新しい名前を手に入れたミレーヌは、ネオ・サッポロに居た。着くなり、駅近くの美容室で髪を染め直す。ダークブラウンに仕上がった髪は生来の髪のようで、懐かしさを感じた。幹線道路に沿う歩道は除雪されてはいるが、裏道はそうでも無い。ローヒールでも危ないので、靴屋で滑りにくいショートブーツを買う。すっかり北国仕様になった。
 新たな住居を決めるまで、ホテルに身を寄せる。雪のフェスティバルが始まっていたので観光客が多く、どのホテルも混んでいたがビジネスホテルのシングルルームなら、なんとか見つかった。大通りの高さ10mを超える雪像製作は佳境を迎えており、それを眺める人々もいた。もう数日もすれば、歩くのも苦労するほどの賑わいになるのだろう。
 長年住んだパリに戻りたいと思わないでもなかったが、やめた。どこで知った顔に出会うかもしれない。組織を離れると決めた今、自分の過去を知る者と関わりかねない、悪い可能性は排除すべきである。妊娠しているので、麻酔を伴う整形手術で顔を変える事もできない。ずっと変装して暮らすのは、気が疲れる。
 せめてネオ・トキオから離れた場所にしたいと考えた。ネオ・サッポロなら大都市だ。まぎれても暮らしていけるだろう。そしてここには雪があり、生まれた国ロシアにも近い。
 ロシアでの記憶は、ほんの少しの断片がある程度で、そもそも「そんな記憶があったと自分で認知していた」記憶でしか、ない。しかし雪景色は、何か懐かしさを感じる。無意識の中の自分が、覚えているのだろうか。それは今の彼女の心を癒す風景でもある。

 モスクワの母の墓は、葬儀の時以来、訪ねた事が無い。10代の頃、フランスから出る事は許されなかったし、ネクライムに入ってからも、組織からの逃亡を防ぐためか、仕事以外で国を離れる事は禁じられていた。いつか、冷たい雪の下に眠る母の墓前に、花を手向けたいと思う。
 子供を産んで落ち着いたら、ついの住みかを探そう。どこか誰も知らない国で、バーでも開こうか、そんな事を考えたりする。それまでは、この地に居よう。
 着いて3日目。昨日、不動産屋で物件を探し、選んだマンションの部屋は面倒の無い家具付き、今日の午前中にはホテルをチェックアウトし、部屋を契約した。スーツケースを部屋に置き、役所に転入届も済ませた。帰り際に見つけたカフェで昼食を摂る。サンドウィッチのランチを注文し、飲み物は紅茶にした。コーヒーが飲みたい所だが、どうもコーヒーがあるとタバコが欲しくなる。君子危うきに近寄らず。まだ悪阻つわりは無く、テーブルに運ばれた昼食を口にする。
 午後は銀行の手続き、消耗品の購入と配達を頼むか。運転免許も早めに取得しておかなければと、彼女は、やる事のリストを頭に描く。そうだ書店で妊娠育児雑誌でも買ってみようか、そう思った所で、ふっと笑いが漏れた。自分がそんな雑誌を買い求める立場になるなど、今まで考えもしなかったのだから。

 少し離れた商業ビル、最上階の壁面に大きなアナログ時計が見えた。時計が午後の1時を差し、あたりに鐘の音が響く。時計は、ルードビッヒの懐中時計を思い出させた。
 彼は、あの懐中時計を大切にしている。おそらくは、あの墓の女にまつわる物を。それでもミレーヌは、かまわなかった。身篭みごもるまでは。
 墓に彫られた名前、生年、没年。キャッツバーグという姓には、心当たりがある。大富豪のキャッツバーグ家の財産を、ルードビッヒが合法的に手に入れた事は知っている。しかし彼女がどんなひとかは知らない。若くして死んだ理由も、彼とどんな関係だったかも。だが、ミレーヌはそれを調べたりはしない。男の過去を調べるなど、そんな事をして何になる。男の過去は男のものだ。彼女の過去が彼女のものであるように。
 墓の没年を見れば、随分前の事である。火葬した骨壷を持って来たのか。今時はヨーロッパでも土地不足で、火葬が大半を占めている。凝った陶器の骨壷を身近に置いて故人を偲ぶのが通例だ。
 彼はそんな骨壷を、全てを手に入れる予定のネオ・トキオまで持って来て、墓に埋葬したのか。それは彼の、墓の主に対する想いを象徴していた。
 彼が昼間でも時計を外していたのなら、彼女は子を堕胎しただろう。彼を失うのなら、子供は要らなかった。しかし、今でもルードビッヒが懐中時計を外す事は無い。大事を成す時、彼はその時計の蓋を開き眺めるのが癖のようだ。つまりそれが、ミレーヌに知らされる現実である。

 自身の懐妊を知った時、彼女が選択したのは産む事であった。生きている女にしかできない、産むという選択であった。彼の子を産みたいと、思ってしまった。
 自分ひとりの勝手な想いで産んで、子供はそれを喜ぶのだろうか。彼女は思いをめぐらせる。
 私が産んだ子供は、私を恨むだろうか。総統の子と知って。
 今となれば、自分の運命を理解できた。
 父は自分をコマとして見ていたのだ、と知ったのは、あの日、彼女がルードビッヒを背中から刺した日。彼女は彼を刺して、共に滅びていきたかった。そして娘にナイフを渡し命じた父は、娘に助けの手を差し伸べる事も無く、笑いながら去って行った。
 ミレーヌは、ただの駒だったのだ。「いつか起きるかもしれない大事な時」に使うための、駒。格が高かろうが、駒は駒だ。そのために絶対に裏切れないように、父への愛情で自らを縛り付けるように、父は娘に接した。恐怖で無く、愛で。ネクライムを一代で築いた総統に相応しい、残酷さで。
 ルードビッヒは父のように、子供を利用する男ではない。それは、彼女は知っている。きっと父に会う事なく子供は成長できるだろう。父親が誰かを知らせる事なく、一生を過ごせるだろう。彼女は、総統の娘と知らされた少女の頃、あれほどに渇望した、退屈な「普通」の日常を知るだろう。
 与えられたパズルのピースは多く無い。少ないピースで絵を想像するのみである。父に母への愛情は無かった。愛があるのなら、その娘である自分を駒と見る事は無い。それは確信と言えた。

 母は父を、愛していたのだろうか。美しい物、美しい世界を愛した母。それは裏を返せば、醜いものばかりを見てきた人生ではなかったか。母は幸せだったのだろうか。モスクワの頃、母には親密な仲の男性がいた、それは後になって知った。俗に言うならツバメだろう。その男と共に自動車事故に会い、母は死に、男は生き残った。ミレーヌは男を憎んだ。
 名も知らぬその男、パリにいた頃、調べた事はある。図書館などで過去のロシアの新聞データを捜した。しかし目的の交通事故の記事は見当たらなかった。死傷者がいたとは言え、運転ミスの単独事故。ロシアは交通事故が多く、死亡者数も当然多い。記事にならなかったのかもしれないし、あるいはネクラム側の圧力で載らなかった可能性もある。
 漠然と「ロシアの若い画家」と言うだけでは、人物を捜す事もできない。そもそも売れないまま、画家として消えてしまう確率の方がよほど高いのだ。それでも、とミレーヌはわずかな望みを求めた。写真の1枚すら無い母。その画家は、母の絵を描かなかっただろうか。この世のどこかに母を描いた絵があるのではないか、そんな思いで、パリの頃、そしてネオ・トキオに来てからも、その絵を探すように複数の画廊に希望は出しておいた。かつての愛人、画商のフランコにも。
 しかし、母の絵は見つからなかった。やはり画家は世に出ず、筆を折ったのかもしれない、事故の後遺症で絵筆を持てないのかもしれない、彼女は、あきらめた。

 私はお母様を恨んだろうか。そもそもお母様は組織の事を知っていたのだろうか、それもわからない。だが彼女が母親を恨んだ事は無かった。母には甘い感傷と思慕が残るだけだ。そして自分が母に愛されていた事も感じている。過ごす時間は少なくても。母の死後、彼女を育ててくれたネクライマーのオルガ。立場はあれど、オルガと共に暮らした日々、彼女から与えられた愛情も知っている。母のピアス、オルガのバングル、ミレーヌの身を飾るのは、受けた愛情の記憶であった。
 私は、この子を愛せる。初めて素直に「愛してる」と伝える事ができる。ミレーヌは、まだ膨らまぬ自分の腹部をさすり、ささやかな、平凡な幸せを感じた。


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