満月のアリア (13) 時計 1

2021/12/04

二次創作 - 満月のアリア

 ドイツから戻った翌日、外は雨模様であった。昨日戻ったのはすでに陽が沈んだ頃である。時差のある長旅と、少々の精神的疲労を感じて、ルードビッヒは早々に眠りについた。その疲れは、ベルナールとの不愉快な会談によるものか、ロジーナとの会話の中にあったのか、判然としなかった。
 どんよりした空の下、冷たい雨が落ちる街は、よけいに気分を悪くさせる。朝から昼になっても気温は上がらず、むしろ低下し、昼過ぎに雨からみぞれ、そして雪に変化した。2月初旬、ネオ・トキオに雪が降りやすい時期ではある。
 音もなく降り始めた雪に、本部の窓から見える街は、まだ白く化粧はされていない。落ちる雪は、ルードビッヒの心を和ませはせず、とある情景ばかりを思い出させた。彼は、またひとりで車を走らせる。
 小高い丘の上、路上に車を止めた先には、墓地がある。まだ雪は積もっていず、足元はベチョベチョと雨と雪が混じったシャーベット状態で濡れている。降る雪を気にもせず、傘も差さずに、彼は冷えた金属の格子の扉を開け、広々とした墓地の敷地に入る。
 墓地の入り口正面奥にあるのは、ひとつの墓だ。丘の下の世界を見下ろすようにある墓地は、ただひとつのその墓のためにある。墓の主は、ジョセフィーヌ・キャッツバーグ。一時期、彼を含めた空(カラ)の墓が周囲にあったが、今はもう取り払われて、また彼女の墓だけが、ぽつんと残る。
 大理石の墓石は、十字架の先が細工のある金のカバーで縁取られ、つまりはそう扱われるべき存在なのだと見てとれる。誰も彼女に触れないように、周囲に広い空間を空けて、社会と隔絶した空間に存在している。

 何年経っても、この氷解しない感覚は何だろうか、彼は女の墓を見つめる。懐から出した、懐中時計の蓋を開けた。その蓋の裏側には、かつての彼の婚約者、この墓の主、ジョセフィーヌの写真がはめ込まれている。
『誰かを愛した事はないのですか』
 ロジーナの言葉が貫いた、自分の奥底の、塊。愛する者を持ったために己に弱点を抱える者達がいる。彼自身が、そういう者達の愛を利用してきた事すらある。わざわざ自分で弱みを作る必要など、無いのだ。私には愛など、らぬ。なのに、この時計を持ち続けるのは、なぜだ。自身の悪事の成功のあかしとしてか。
 いや、そうではない。それは彼自身も知っていた。彼を苦しめるもの、それは「罪悪感」である。裏社会の頂点を目指そうとする男に不要な、罪の意識であった。知っているが、認めたくない、頑なに自分の心を拒否し続けてきたのは彼の自尊心であり、同時に感情へのおびえである。罪悪感が芽生えた根底にあるもの、それは死んだ女を愛していたに他ならなかった。
 今でも彼にはジョセフィーヌの行動が理解できないでいた。彼自身は愛について考えた事など無かったのだから。だが彼女の彼への愛情がそれを選択させた事は明らかである。だからこそ、彼は解けない氷の塊を胸の中に抱えてきた。
 彼は時計の蓋を閉じると、再び懐に戻し、立ち尽くす体にだらんと下ろした腕の、握り込んだ拳を、さらに強く握った。
「後悔の証だ」
 初めて、彼はそれを口にする。認める事は、自分に不要な「愛」という感情が存在していた事を、目の前に突きつける。女を愛した事を後悔し、その女を死なせてしまった事を後悔する。

『私には幸せや愛など、必要無い』
 ジョセフィーヌの父親に吐いた言葉を、彼女は耳にした。
 まさか身投げするとは思わなかった。せいぜい横面よこつらを叩かれて、不実をなじり、泣きながら去っていく程度だろうと思っていた。彼にとって、愛とはその程度の認識でしかなかった。
 だがジョセフィーヌは、彼の目の前で飛び降りた。彼女は薄々気づいていた、彼が愛など信じていない事を。彼の目的がキャッツバーグ家の財産である事も。必要の無い自分は捨てられ、忘れ去られていく事を。
 自分の想いを、それを信じてもらうために、その身を投げた。命をもって、愛を伝えるために。そして彼の中の哀れな自分を、確実にその心に刻むために。若い恋心の純粋さと残酷さで、彼女の身体はくうに舞う。男の心に烙印を押すように。
 彼が幾度となく思い出す情景、それは雪の上に横たわるジョセフィーヌ。彼女を抱き上げた彼の耳に届く声。
『あなたが世界中で、一番、好き』
 命尽きる前に伝えた言葉、彼は、その言葉を信じるほかなかった。そして自分の中にあった、不要な感情の存在に気づいてしまう。しかしそれを認めようとはしなかった。そして彼の心は、いつまでもジョセフィーヌに縛り付けられる。
 ルードビッヒが夜にミレーヌの部屋を訪れる時、その上着に懐中時計は無かった。それは彼にとって最低限の礼儀である。誰への礼儀か。死んだ女か、生きてる女か、そのどちらにもか。しかし昼間の彼の上着には、必ずその時計はあった。彼にとって、それは離してはならない物であった。

「私も、お前が⋯⋯好きだった」
 彼はようやく自身の心を認め、口にした。今さら届きもしない言葉を、口にした。どうにもできない感情を、扱いきれない不可解な想いを、ようやく認めた。それはミレーヌが去ったからか、郷愁を誘うロジーナの、語る言葉に思考がおよんだからか。
 情けない、ネクライムの総統ともあろう者が、死んだ女に語りかけるなど。全てを手に入れようとしている男が、たったひとりの女の死を、こうも引きずっているとは。死者に届く言葉など、ありはしない。ルードビッヒは、自分の愚かさも、認めた。それは彼の不可解な感情を表に出し、光を当て、その正体を知らせる。
「不要な感情だ。⋯⋯だが、事実だ」
 そう、私は後悔しているのだ。お前を死なせてしまった事を。愛する者を持ち、弱みを抱える者達を愚かと認識しつつ、自分の愛した女の死を誤魔化し続けた自身を、認めざるを得なかった。事実を事実として、ようやく認めた。
 認める事は、彼の心を解き放ったかもしれない。死んだ女との過ごした時間が思い出され、甘い感傷で満ちる。彼は、初めてジョセフィーヌのために涙を流した。今まで一度たりとも流れた事の無い涙が、こぼれた。
 それに彼自身が驚き、嘲笑わらった。だがそれは、ひとりになった今の彼を慰める。ちらちらと降る雪が、積もり始めていた。



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