廊下にいたウルフが病室の扉を開ける。男が通り過ぎ、続いて入ろうとしたジタンダは、ウルフに上着の後ろ襟を掴まれて止められ、廊下に引きずり戻された。気を利かせろよ、とウルフは忍び声でジタンダをたしなめる。ベッド脇のキャットが入ってきた男に黙礼し、無言で病室の外に下がり、扉は閉められた。
背後の気配に、ミレーヌは体を左に向き直した。病室の入り口に、ルードビッヒが居た。
彼はベッドに近づくが、横たわる女は顔色が悪い。ナチュラルメイクのせいだけでは無いだろう。彼女は男の姿を認めると、ベットの上に、ゆっくりと上体を起こした。この地に、彼までもが来ていた事を、ひどく意外に感じた。当然、スティンガー部隊だけと思っていたからだ。目にしたルードビッヒに、心が、ざわざわと音を立てる。
なぜ、と考えるより先に、今は体裁を整える。無様な姿は見せられない。寝乱れた髪を手櫛で整えながら、口を開く。
「あなたまで、来てたの」
ベッド横のスツールに座る事も無く、枕元に立つ男は、まだつらそうに見える彼女の姿に、かすかに眉を寄せた。
「具合が、悪いのか」
二度と、彼に会いたくは無かった。会えば心が乱れるのが、わかっているからだ。ざわつきを抑えるように、ミレーヌは彼から視線を外して、平静に応える。
「ええ、別に。大した事、無いわ。救出ありがとう、助かったわ。すっかり面倒かけてしまったわね」
キャットには伝えてある。今ここで、流産を話す必要は無い。望まぬ子が流れて、ほっとしたであろう男の顔など、見たくなかった。彼女の言い方は他人行儀であり、別れた男への言葉であった。
彼女のよそよそしさを、男も敏感に感じ取る。だが、ここで背を向けるわけにはいかない。
「そんなセリフを吐くな」
腕を伸ばすと軽く体を屈め、女の上半身を手繰り寄せた。
争う事なく、女は腕の中に来た。男の両腕が、女の体を包む。幾日ぶりかで腕の中に収まった女に、爪を立て、逃げ去った獣を捕まえたように感じた。まだ手の届く女に、安堵する。腕の中の、柔らかく暖かい身体が、彼に生きた女の必要性を感じさせた。
思いがけない男の行動に、女は身じろぎもせずに、何が起きたのかと軽く混乱する。なぜ今、ここに来たのか。なぜ今、抱きしめているのか。そして彼女は、その腕を振り払う事ができずにいる。
「どうしたの。 あなたらしくも無い」
なぜ、の問いを口にはしても、こわばった身体と心が緩んでいくのを否定できない。満ちてくる想いにミレーヌは陶酔感に瞼を伏せ、頭部はルードビッヒの左胸に埋もれた。彼の匂いがする。過ぎし日に肌を合わせた、男の身体を感じる。
その時、彼女の目が、見開いた。片頬をうずめた彼の上着の内ポケットに、硬い塊が、無かった。あの懐中時計の硬さを感じない。この人は、あの時計を外したのだろうか。自分の鼓動が、大きく波打つのを感じた。
ルードビッヒは来る前に、懐の時計を上着から、外した。
開いた蓋裏のジョセフィーヌは、いつもと変わらず微笑んでいる。しかしそれは過去だった。過去の彼が愛した、過去の女だった。遠く過ぎた、時の記憶の中であった。
さらばだ、ジョセフィーヌ。彼は懐中時計を丁寧にハンカチに包むと、持参のブリーフケースに入れた。それはいずれ、彼のデスクの引き出し奥に置かれる事だろう。過去の名残りとして。
抱いた女の顔を見る事無く、彼はその言葉を静かに口にする。
「戻って来い。私のそばに居ろ。子供は産みたければ、産めばよい。総統の子として育てよう」
弱みを作る、それがどうした。女のひとりも守れぬ総統などあるか。不要な感情、だがこの女は要るのだ。失いたく無いのなら、その手を放すな。そんな当たり前の事に、思考が帰結した。ありえない男の言葉に、ミレーヌは自分の耳を疑った。これは自分の見ている、都合のいい夢なのだろうか。
「どうしたの。あなたがそんな事、言うなんて。思いつきで言うものじゃないわ。子供なんて、無理よ。⋯⋯でも⋯⋯嬉しいわ」
ささめくように男の唇が、短い言葉を発した。
「⋯⋯居てくれ」
彼女の目に溜まっていた涙がこぼれたが、抱きしめる彼がそれを見る事は無かった。女の声が現実を告げる。
「子供は⋯⋯流れてしまったの。ごめんなさいね」
最初に告知を受けた時、ルードビッヒにとっての子供は、得体の知れない存在だった。しかし流れた、と聞いて、意外にも自分の血を引いた子供への、漠とした喪失感を覚えた。女を抱く腕の力が、少し緩んだ。
「また、作ればいい。気に病むな」
緩んだ腕から離れた女は、彼の顔を見上げて言った。
「ありがとう。でも、もういいわ。その言葉で十分よ」
それは慈愛にも似た笑みであった。こんな風に涙を流すミレーヌの顔は、初めて見たかもしれない、男はそんな事を考えていた。彼女は両腕で男の体を抱き締めた。その胸に再び顔を埋め、彼の望む答えを口にする。
「⋯⋯そばに居るわ」
束の間の、普通の母親でいられた感覚は過ぎ去った。さようなら、私の子。ミレーヌは、ささやかな幸せに別れを告げた。
廊下ではウルフ、キャット、ジタンダの3人が、主人のために控えている。無論、ここは一般病院だ。ウルフもキャットもプロテクターは外し、上にトレンチコートを羽織り、一般人のように見える。揃いのコートを着たカップルにも見えるかもしれない。
救出後のミレーヌの体調が悪く、搬送されたとだけ連絡を受け、ジタンダはルードビッヒと共に来た。「車を出せ、病院だ」と言った主人の言葉にホークもジタンダも胸を撫で下ろした。
どうして産婦人科、とはジタンダも思ったが、一番近くにあった病院がそこなのだろうと深くも考えなかった。だのに、なぜか病室に入るのをウルフに止められ、今は廊下で待機状態である。立てこもり事件があった時からヤキモキしてたんどすから、あたしだって、ミレーヌ様の顔を見て安心したいデスのに、あんまりどす。
「お子様、流産されたようよ」
ぽつりとキャットが口にした。それは彼女の仮説が正しかった事を示していたが、こんな結果は予想しなかった。一瞬ウルフの目は見開き、やや間を置いて、
「そうか」
と、応える。キャットが内科で無く、産婦人科を選んだ時点で、ウルフにもある程度の想像はできた。つまりそれが組織を去った理由と納得した。キャットは前から予想していたようで、なるほど女だな、と思わせた。ルードビッヒ様のお子か、と流れた子供に思いを馳せた。
「流産? 流産とは、妊っ娠んっ、妊娠んんんっ、ぎええぇ! ミレーヌ様が妊娠だなんて、相手は一体全体、どこのドイツだってんでございマスデス!」
わけもわからないように、ジタンダが興奮する。ひとりピエロをしているジタンダに、キャットがあきれたように声をひそめた。
「病院なんだから静かにしてよ。ジタンダ、あんた、気づいてなかったの? ルードビッヒ様以外に、誰がいるのよ」
「がっ!!! るるるるルードビッヒ様あぁぁ!!」
パニック状態のジタンダに、ウルフが止めを刺した。
「お2人の仲は、公然の秘密だろう」
すました顔で、ジタンダを横目で見る。
「ひえええぇぇ」
一度に襲いかかった情報に、ジタンダはただただ、混乱し、興奮した。
0 件のコメント:
コメントを投稿