ベルンでの会談が終了したが、ルードビッヒは、すぐにネオ・トキオには戻らなかった。ナツミが配属初日に発した「マイセンのコーヒーカップ」の単語が古い記憶を思い出させ、スイスに行くのなら近くだと思い、ドイツに寄る気になった。
あらかじめ情報屋のネットワークを通じて用意させておいたレンタカーに部下達と乗り込み、クライドに調べさせていた住所へ向かう。事前にベルナールに車の手配を頼んでおくという選択肢もあるが、自身の動きを知られるような行為はまっぴらである。ドイツのシュトゥットガルトまで300km程度、高速道路を使えば3時間少々だ。会談での不愉快な気分を落ち着かせるには十分な時間と言えた。
彼の生まれた時、その街は西ドイツ国内であった。しかし2025年に東西ベルリンを隔てた壁が壊され、その後、東西に分かれていたドイツは再統一する。とは言っても、そのために経済の混乱は続き、長い期間不況が続いた。彼の生家は、とうに無い。
家系は18世紀に剣の貴族としてフォン・ルードビッヒと成ったが、その特権は、第一次世界大戦後にドイツが君主制から共和制に移行した際に、貴族制は廃止され、消えた。貴族を表す前置詞のフォンは、今では単なる姓の一部でしか無い。貴族制が廃止されても、富裕層の意識に変化は少ない。彼のそれは上流社会から見れば「戦争貴族」と陰口を叩かれる程度の尊敬しか得られなかった。
それでもフォンの持つ懐古的な響きは、庶民に優雅な暮らしを想像させるようで、若い彼の母も父の元へ嫁いだ。しかし父が事業に失敗し自堕落な生活になると、家庭は荒れ、母は15歳の息子を置いて出て行った。その後に金持ちの後妻に入ったらしいとの噂は、息子の耳にも届く。息子を置いていったのはルードビッヒ家の後継を残すため、というのは建前で、次の男を見つけるのに子供は邪魔だったのだろう。
父の事業の失敗は、古くからの友人に誘われたものだった。そして失敗の理由は、その友が資金を着服して逃げた事が発端である。父の持つ動産も不動産も、消えた。再起する気概も無く、酒浸りになった父は、彼が20歳を過ぎた頃に病死する。連絡を受けて士官学校の寮から戻った彼が見たものは、家中に貼られた「差し押え」の紙だった。家も土地も、とっくに抵当に入っている。彼に父の最期の連絡をくれたのは、60代になるメイドのロジーナという女だ。
陽も落ちて、あたりは暗い。シュトゥットガルトの北部、フォイエルバッハ地区の住宅街に来た。狭い道と雑然とした小さな集合団地や家々の街並みは、この地域が平均レベルよりも下の住民達が暮らしている事を教えている。
この時間なら家にいるだろう。車を止めさせ、ウルフが同行し、粗末な集合住宅の1階の部屋、ルードビッヒはドアをノックする。どなた、とドアチェーンをつけたまま少し開いた隙間の向こうには、だいぶくたびれた初老の女が顔を見せる。
「久しぶりだな。覚えているか、ロジーナ」
「まあ⋯⋯アドルフ様!」
シワに埋もれ始めた目は、大きく見開いた。突然の来訪に驚きながらも、ロジーナは嬉々としてルードビッヒを中に招く。彼はウルフに車で待てと告げ、老女の招きに応じた。
彼女の、後ろで結ばれた肩ほどの髪は、もうほとんど白くなっている。平均的な身長の痩せ気味の女は、質素な部屋に住んでいた。小さな部屋だ。だが、老女ひとりが住むにはちょうどとも思えた。もたらされた情報で、ひとり暮らしなのは知っている。
彼女は小ぢんまりとした食事テーブルの椅子を彼に勧め、まあ、まあ、と驚嘆の声を上げながら、コーヒー淹れますわね、とポットにお湯を沸かし始めた。後ろ姿を見ながら、彼はロジーナに声をかける。
「まだ、シュトゥットガルトに居たんだな」
「ええ。長年すごした街ですから。家賃は高いけど、今さら知らない街へは行きたくないので」
彼は右手に持った皮のブリーフケースから出した分厚い大きな封筒を、テーブルの上に置いた。
「その昔、払えなかった退職金だ。お前の事を思い出す事があってな。遅くなって、すまない」
生家の引き渡しが決まった時、彼が幼い頃から仕え、最後の最後まで家に残っていたロジーナは、新しい主人に別れを告げに来た。ルードビッヒは、彼女に次のメイド先への紹介状を書いていた所だった。しかし彼女は、紹介状は不要だと言う。なぜだ、と問う彼に、短い沈黙の後、告白した。
「私、刑務所に居ましたの。それなりの期間ですわ。調べればわかります。そんな者をメイドに雇う方なんて、いませんわ。いえ、旦那様以外では」
初めて、知った。旦那様、とは死んだ父を指している。父は、それを知った上で雇っていたのか。
「アドルフ様は、ご両親のケンカばかりしている姿しか、ご記憶に無いのかもしれません。けれど旦那様は、とてもお優しい方でした。こんな私を長年、家族の一員として迎えてくださったのです。事業に失敗された後も、もう給金を払う事ができないからと退職を告げられましたが、私にはどこにも行く所がありません。寝るベッドと食事があるなら構いませんと、お願いしたのです。旦那様は、すまない、と私のために泣いてくださいました」
ロジーナは、手で口元を覆うと涙を流した。人生の落伍者、情けない酒浸りの男、そんな父の、もうひとつの顔を見た。
「そうか。今まで、本当にありがとう、ロジーナ。そんなお前にロクな退職金さえ、払えない。せめて紹介状をと思ったんだが」
彼女が真面目で、いかに誠心誠意、主人に尽くしたか、そんな紹介状を書いていた。何か、彼女に報いたいと思うが、退職する彼女のために封筒に包んだ金は、わずかだった。今の彼にできる事は少ない。ささやかに残った金は、彼の全財産だ。彼女は涙の残る顔を上げて、
「では、私にマイセンのコーヒーカップをくださいませんか。旦那様のお気に入りだった、黄色いドラッヘンの模様のあるカップを」
微笑みながら、願い出た。ドイツの誇る高級磁器、マイセン。ロジーナが欲したのは、東洋趣味の竜の柄が入った物だ。カップの縁は緩やかな波型で、金で縁取られている。側面に東洋風の竜の意匠があり、受け皿にも同様に竜がある。同じ柄のカップが他にも1客づつの色違いで5客あった。黄色い竜は、父の好みだったらしい。
「あんな物で良ければ、もらってくれ。食器のひとつくらい減った所でわからんだろう」
彼の答えに、ロジーナは感謝の涙を流した。
テーブルに置かれた封筒を見て、ロジーナが驚いた。
「まあ、まあ、なんて律儀なアドルフ様」
感謝の笑みをたたえた彼女が、黄色いドラッヘンのカップにコーヒーを入れて、ルードビッヒの前に置く。それを合図に彼も椅子に腰を掛ける。彼女は、ありきたりのカップで、自分用に台所用のスツールを持ってきた。
「このカップは、今でも、私の宝物ですの」
微笑む彼女にとって、父との記憶は大切なものなのだろう。ルードビッヒはブラックでコーヒーを口に含んだ。熱いコーヒーが冷えた体にしみる。
「上手いな。今は、どうして暮らしている?」
「ビルの清掃婦をしてますわ。清掃ロボットのスケジュールやメンテナンスの簡単な仕事です。こんな年寄りですし、仕事はもらえるだけ、ありがたいです」
そうか、と答えた。ならば、この退職金はちょうど良かったか。長い間、無給で仕えてくれたロジーナに、ようやく報いる事ができる。
「元気で暮らしてくれ」
コーヒーを飲み終えたルードビッヒは、立ち上がる。
「アドルフ様。何か、私に御用があったのではございませんか?」
突然現れて、昔の退職金を渡しに来た彼に、ロジーナは何かの意味を求めた。スツールから立ち上がり、彼の後ろ姿に問う。
「別に。そういうわけじゃない。たまたま思い出しただけだ」
マイセンのコーヒーカップ、の単語に誘われただけとは言わなかった。
「本当にそうですの? ⋯⋯ルードビッヒ総統」
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