逃走用の車が用意されるまで、時間があった。その間、何人かがトイレを申し出、小沼は許可する。残った人質、誰でも殺す相手として、脅しは十分に機能した。客用に待ちスペースに置かれている、お茶と水の出る給茶器を使う事すら許可した。暖房で乾燥した室内で、小沼自身が喉の渇きを覚えたためでもある。だがトイレが近くなる事を恐れて、自分は口を湿らせる程度にしておいた。いざとなれば、誰か男の人質と共にトイレに行けばいいかと思っている。
立てこもってみると、時間とは長いものだった。7人の人質と共にいても、小沼に何ができるわけでもない。人質達は無言でいる。神経をピリつかせてもする事が無くて、何を考えているのだろうと思った。俺も不運だが、こいつらも運が悪かったな、と思うものの、さりとて何か話せとか、マガジンラックの雑誌でも読めとか言うわけにもいかない。ナメられたら、終わりだ。ふてぶてしい犯人として恐れられ、存在しなくてはならない。
人質から目を離すわけにはいかない小沼も、自分の先を考えれば不安しかないが、同時に退屈でもあった。唯一、流れるテレビ画面が救いとは言えたが、この事件のVTRとコメンテーターの談話を伝えるか、画面の中に枠を切って事件のテロップを流しているかで、現実を目の前に突きつけるだけである。警察が情報を抑えているのか、特に目新しいニュースも無い。
平日の昼間、テレビ番組はニュースバラエティの他は、教育番組か、通信販売、ドラマの再放送くらいのものである。ドラマは人気の現代物のポリスアクションか、常套の勧善懲悪の時代劇。冗談じゃない、こっちは現在進行形だ。無害な通販番組に変えて、何の興味もわかない日用品を紹介する画面を眺めていた。人質の多くも、同様にぼおっと画面を眺めている。
そしてまた、電話が鳴る。
「職員用出入り口の外に車を用意した、と言ってます」
すでに恒例の、支店長が受話器を押さえて小沼に伝えた。時刻は午後4時半。ふん、やりゃあできるじゃねぇか、と小沼は警察に言いたかった。
「よし、これから女をひとり、人質にして、車に乗る。絶対に警察は追いかけるな。まわりに他の車が見えたら、女を殺すぞ。ヘリもダメだ。そう伝えろ」
支店長は、怯えながら電話口に伝えた。そうして電話が終わった。逃亡の際の人質は、自分から申し出た、ミレーヌが名乗るモニカと決まっていた。犯人への援護射撃のような発言で微妙な立場の女性客ではあるが、客には違い無い。さすがに客を人質にするわけにはいかない。銀行員の誰かが人質、が相場だろう。
事実、残っている支店長と男性行員は、どちらが人質として名乗り出るか、目を見合わせていた。ああ、なんで今、俺は支店長なんだろう、と自分の運命を呪いながら、恐る恐る、口を開いた。
「あの、さすがにお客さまを人質に出すのは、あまりにも⋯⋯わ、私が」
舌がもつれて、上手く話せないほどだ。
「うるせえ、男を人質にできるか。それとも女か?」
小沼は、残っていたエミを含む3人の女性行員に目をやった。視線を感じた女達は、ひっと小さく叫ぶと、首を横に振るか、首をすくめ体を硬くして、うつむいた。支店長も女性行員に人質になれ、とまでは言えない。
「気にしなくて、結構よ。どうせ私は、独りだし」
ここで人質を替えれては、たまらない。ミレーヌは余裕を持った言い方で、その話にケリを付けた。小沼は、だとよ、と支店長の話を終わらせる。
「さて、悪いがお前達は縛らせてもらうぜ。俺たちが逃げる前にシャッター開けて、警察が雪崩れ込んでも困るからな。おい、ヒモみたいなのは無いのか」
小沼の言葉にエミが答える。
「あの、雑誌とか新聞とか、ゴミに出す用にビニール紐があります」
持って来い、と言う小沼に、エミはカウンター内に取りに行った。丸い束になっているビニール紐を使い、人質達に後ろ手に縛らせるよう命じた。最後に残ったエミは裏口の解除方法を話し、ミレーヌに縛らせた。
「ごめんなさい、あなたが最後の人質になるなんて」
エミは、ミレーヌに謝った。大丈夫よ、と答えておく。
「まあ、俺たちが消えた後で警察が来るだろう。それまで我慢しとけよ」
そう言うと、小沼は札束の入ったナップザックを背負い、ミレーヌに「行け」と命じ、2人はカウンター奥の扉に消えた。人質達は、全員がほーっと息を吐く。自分で申し出たとはいえ、あのモニカという女性客は、どうなるのだろう、と不安を感じる事はあったが、自分のこの悲運が終わる事に安堵し、やがて訪れる助けの手を待った。
少し前から、ミレーヌは腹に鈍痛を感じる。銀行を出る前に、男に聞く。
「もう一度、お手洗い、いいかしら? あなたは、平気なの? これから逃げるんでしょ」
確かに、そうだ。実は小沼は、尿意を結構我慢していた。
「おい、トイレはどこだ」
こっちよ、とミレーヌが先を行く。男性用の扉を開けた。扉を開ける手は、いつの間にかウールの手袋をしていた。「どうぞ」と、小沼を通すために身を引いた。こいつ、指紋を付けない気だな。
「おい、お前も中に入れ。ドアの前で、後ろを向いとけ。銃を構えてるからな」
そう言い、小沼は銃を左手に持ち替え、右手だけでパンツのジッパーを開け、小用を足した。やりにくいが、仕方無い。ようやくスッキリした。
「じゃ、今度は女性用ね」
女が男性用より廊下の奥にある女性用トイレの扉まで行く。
「今度は、あなたが中に入るのね。個室のドアを開けておけ、という要求はお断りするわ」
「けっ、そんな趣味はねぇや。さっさとしろ」
女が入った個室の扉が閉まる。下着に付けた生理用ナプキンは、出血を吸っている。まだ血が出ている。本当に時間が無いのかも。小用を足して、ナプキンを取り替えた。この腹の痛み、まだ我慢できるだろうか。
「なあ、モニカ。お前、スネに傷あるのか?」
個室の外から小沼が話しかけた。
「もう、ここには2人だけだ。他のやつに聞かれやしない。それとも指名手配とかか?」
「警察と仲良くしたく無いだけよ。面倒だから」
女は否定するが、小沼は納得しなかった。あの目配せ、冷静さと度胸の良さ、そして手袋。絶対に後ろ暗い所があるはずだ。人質を申し出たこの女と逃げて行くのも悪くないか。あての無い逃避行なのに、少しばかり心が浮わついた。
「あなた、意外と紳士的な立てこもり犯だったわよ。本気で子供を殺す気なんて、無かったでしょ?」
個室から出てきた女が言った。この女から「あなた」と言われると、ちょっとゾクゾクするな。
「うるせえ、ガキを殺す気は無くても、大人なら殺すさ」
うそぶいてみるが、どうにも締まらない。手を洗う女は、
「外は寒いでしょ。私もマスク、付けるわね」
そう言い、バッグからマスクを出して付けた。そして再び手袋も。小沼も今さらやめろ、とは言わない。やっぱり顔を隠したいんだろ、と確信しただけだった。
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