今、ミレーヌは自分の身を守るための武器も何も、無かった。妊娠初期である事を考えれば、派手に動く事もためらわれる。とりあえず、犯人を刺激しないように状況を打開しなくてはならない。
「ねえ、せめて撃たれた人だけでも解放するのは、どうかしら?」
待合用の長椅子に座ったミレーヌは、再び小沼に声をかけた。その声に、男は銃を向けて、
「なんだと! お前も撃たれたいのか!」
と、凄んだ。ミレーヌからひとり分空いた所に座っていた子連れの女が、即座に幼い我が子を隠すように抱きしめた。その男の子は、4、5歳という所か。泣き止んだ子供は、何が起きているのか理解できなくても、異様な空気は感じているのかもしれない。おびえるように母親にしがみついていた。
「シャッターは閉まっているけど、さっきの銃声は外にも聞こえたんじゃないかしら。きっと今、銀行の周囲は交通規制もされて、ひどく静かなはずよ。警察は人命優先でしょうけど、中で発砲があったと知ったら、より早く解決するために、強硬突入するかもしれないわ。そうしたら、あなたはもちろん、私達だって何人か死ぬかもしれないわ。私は、こんな所で死にたくないの」
人質だというのに、やけに冷静に話すミレーヌの言葉に、小沼は逆に動揺した。さっきの銀行員への手当といい、この女、落ち着き過ぎている。
「お前、なんだ? 警官か? 鞄をよこせ、マスクを取れ!」
小沼はマスクを付けたままだが、ミレーヌに取るよう命令した。そして彼女のショルダーバッグを取り、口を開くと中身をカウンターの上にばら撒いた。
「風邪気味だからマスクしていたいの」
「いいから、取れ!」
仕方ない、ミレーヌはマスクを外した。マスクを外した女は、思ったよりきれいな顔をしていた。これがどこかのバーだったら良かったのに、と小沼は思った。バッグの中身は、財布にハンカチ、ポケットティシュ、化粧品、他には住民票などの役所の書類くらいしか無かった。警察手帳は見つからない。
「警官なんかじゃないわよ。警察に、ご厄介にはなりたくないわ」
カウンターに近づいた彼女は、そう答えると男に軽く目配せをして、バッグの中身を元に戻し始める。目配せの意味に、バカな男でも気づくだろうか。女から意味深な目配せを受けた男は、考える。こいつ、スネに傷持つ女か?
「いいだろう。怪我した男を解放してやる。だがシャッターは開けるな、裏口があるだろう。おい、お前! 名前は何だ」
と、一番最初に応対していた若い女性行員に銃口を向けて言う。
「す、すず、き、エミ」
銃口を向けられた20代の女は、恐怖に歯の根が合わないのか、途切れ途切れに自分の名を小声で答える。
「鈴木エミ、か。怪我したそいつを、裏口から出せ。お前は裏口をしっかりロックして戻って来い。戻って来なけりゃ、このガキを殺すぞ。必ず戻ってこいよ! 客の子供を見殺しにした女として、鈴木エミの名前は世間に知れ渡るからな!」
引きつった顔のエミは、言葉も出ずに何度もうなずいた。
「お願い、お願い、絶対に戻って来て! この子を助けて!」
さらに恐怖を感じているのは、子供の母だ。30代の母親は子供を抱きしめながら、涙を浮かべた必死の形相でエミに懇願する。
腕を負傷した銀行員は、自力で歩く事は可能だ。自分の失態だ、こんな状態の客を残して行くのは申し訳ない、しかしこのまま残り、どんどん痛みが増す状態では足手まといにしかならない。彼は外に出て、中の情報を伝える事を選んだ。むしろエミの方が恐怖と緊張で、上手く歩けなかった。つっかえながら、歩いているような状態だ。2人はノロノロと銀行カウンター奥のドアに消えた。
これで、少なくともひとりは解放される事になる。怪我をしているとは言っても、その男の口から店内の状況は警察に伝わるだろう。防犯カメラだけではわからない、犯人や人質のおよその年齢、凶器の種類と数、様々な情報がもたらされるだろう。事件解決を早めるかもしれない。
さて、とミレーヌは考える。自分を逃すにはどうしたら、いいか。立てこもりに、成功の道など無い。必ず失敗の終幕が訪れる。その時の犯人の生死は不明でも、警察は人質をなるべく死なせないようにするはずだ。救出された人質は、まずは病院へ搬送、問題無ければ落ち着いたあたりで、被害者として事情聴取。
しかし、救出時にはマスメディアが山のように群がるだろう。警察が押さえた所で、事件解決なら人命優先の建前は消え、記者連中はかまわず自分達の仕事を優先する。間近で映像や写真を撮られる事は、絶対に避けねばならない。警察が被害者のために、救急車までの通路をブルーシートで覆うかどうかも、確実では無い。病院の前にだって、きっと黒山の人だかりだ。そして、買い取った新しい名前。こんな状態で警察に取り調べられるのは、綱渡りに過ぎる。
そしてこんな事件だ。ネオ・トキオのマグナポリスの連中だってテレビ中継を観ている可能性が高い。画面に自分の顔が映れば、すぐさま動き出す。髪色と髪型、化粧を変えた程度では、間抜けなウラシマン達は気づかずとも、女に慣れていそうな色男のクロード坊やは気づくだろう。ネオ・サッポロの警察に連絡が入り、ミレーヌはすぐさま逮捕される。
犯人があきらめて投降するなら事件は穏やかに終わるが、それでは自分の逃げ場が無い。警察の強行突入時に紛れて逃げられるか? この体では、それも難しい。とすれば、逃した犯人に付き添うか、と彼女が思考をまとめた所で、エミが戻ってきた。
「遅いぞ!」
ようやく戻ってきたエミに、小沼が怒鳴る。しかし戻って来た事で、興奮状態から少し落ち着いたようだ。母親は、はーっと息を吐き、我が子の無事に涙ぐんだ。
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