ルードビッヒは自室に戻ると、テーブルの上で梱包を開き、絵を手に取り、眺める。その絵の女は、やはりミレーヌに似ていた。顔のパーツだけでなく、目線をこちらに投げかけて、笑みを浮かべる表情が似ている、と感じた。
この絵を売るくらいならミレーヌと画商の男は、もはや関係無さそうだ。車を見た画商の、顔と態度に表れた変化を見れば、そこで初めてネクライム総統を認識していた。買うまでは、ただの客だ。
そして、おそらくこれが彼女が探していた絵なのだろう。画商の言葉の全てを信じる事はできないが、絵の女を見た以上、ミレーヌが探していたというのは事実と思える。実際には彼女は絵を見たことは無いのかもしれない。「絵があるかもしれない可能性」を、探していたのではないか。絵を覚えてもいないのに「見ればわかる」とは、そういう事ではないのか。そして、そんな不確定要素の絵を求めるほどなら、おそらく母親は死んでいる。
あの日、2050年12月10日の日、フューラーとの対決の日。あの場面で、フューラーなら確実にルードビッヒを殺しに来る。だが易々と殺されるわけにはいかない。ウラシマンを利用してフューラーと戦わせるため、彼は「殺される形」にしたかった。そのために、刺客はフューラー以外の者でなければならない。フューラーの性格は知っている。自分を裏切った者を、華麗に殺しはしない。屈辱を感じるような方法を取るはずである。それは、何か。己と同様に部下に裏切らせるか。
ルードビッヒは消去法で思考する。ジタンダは除外、スティンガー部隊、考えにくい。ならば、残るはミレーヌか。謎の多い女、しかし私の女。その女に裏切られるとしたら、相当に滑稽で無様だ。
ただ、今さらに裏切る理由が見当たらない。裏切るくらいなら、もっと前、フューラーを宇宙流刑にする時に阻止するだろう。そうでなくてあの後に裏切る理由は何だろうか。
ミレーヌはネクライムの構成員データでも、前歴は真っ白だ。生年月日すら、無い。なぜ真っ白か、それはフューラーによってなされている、と考えるのが妥当だ。『銀の猫』の女性バーテンダーでなく、ネクライムのミレーヌとして再会した時、「ネクライム幹部候補として教育された」と彼女は語った。それが理由の答えではないのか。何らかの時限装置を抱えている、と考えられなくも無い。
運命の日は来た。事前にスティンガーウルフに指示書の封筒を渡した後に、ミレーヌを死なせないよう指示しておいた。殺してしまっては何も情報を得られない。何か貴重な情報源かもしれぬ女を殺すのは惜しい。そう、ただ、それだけだ。彼は心の中で言い切る。
そして彼が形の上で死に、再起する時に、その理由を知る。彼女が総統フューラーの娘、記憶を操作されて、知らずに長い年月を過ごしたと。もう二度と裏切りはしないわ、自分に従う女の目に彼は満足した。
『昔の事は、忘れたわ』
そう言う女は、話したく無いのか、必要以上に語らなかった。ルードビッヒは、それを強要する気は起きなかった。当然ながら存在する、彼女の母親も知らない。
ミレーヌの母親、と言う事は、フューラーの女になるわけだ。2026年、フューラー61、2の頃か。どこでこんな女を見つけてきたのか、老いらくの恋と言うやつか。いや、そうではあるまい。フューラーは娘も駒として利用する男だ。この女もただの情婦だ。ミレーヌが年齢不詳であっても、年の程は想像がつく。この絵の頃は、とうに生まれている。
ロシアの画家のアトリエに残る絵。母親と共にロシアに居たと言う事か、フューラーとの縁は切れていたのか。ではその後にミレーヌはフューラーに引き取られたのか。この絵の女の笑みは、誰に対してか。画家か、あるいはその横に誰か居たのか。いや、誰か居たなら、その誰かの手元に絵は残るはずだ。
そんな事をつらつらと考えたルードビッヒは、絵をテーブルに置くと、軽く頭を振った。どうでもいい事、だ。何をくだらない事に時間を使っているのか。
昨夜のナツミの行動に腹を立て、そして腹を立てた自分にもイラついた。いっそミレーヌの言葉が嘘で、前の男の子供ならと思ってみた。ならば自分は女を殺せるだろうか、と。だがそうであった場合に、本当に彼が手を下せるのか、その場になってみないと彼自身にもわからない。そして⋯⋯そんなつまらない嘘を言う女でない事は十分に知っていた。
「私は、何をしているんだろうな」
自嘲ぎみに口にする。ふとした興味で絵を買った自分を恥じた。これが彼女の母親だとしても、だからどうだと言うのだ。この絵を探していたからと言って、もはや自分には関係無い。要らぬ子を宿し、自分の元を去った女に贈る理由も無い。
馬鹿馬鹿しい、ルードビッヒは懐からバタフライナイフを取り出すと、その刃を出した。己の愚行を消し去るように、切り裂こうと刃先をキャンバスに向ける。
今まさに刃を向けられた金髪の女は、彼に微笑みかけている。振り上げた彼の手が止まった。女の笑みは、彼に刃先を入れる事をためらわせる。なぜ、ためらうのか。彼はその問いに答えを見出せなかった。端正な顔が軽く歪むと、苦々しくナイフを閉じて懐に戻す。開いた梱包を雑に包むと、その絵をクローゼットの奥に追いやった。
情報屋から、ようやくホテルの部屋に外線電話が来た。時間がかかったが求めていた公の書類が手に入る。ミレーヌはホテルをチェックアウトする。もう、次からは違う名前になる。自分の名前を、過去を、捨てると決めた。
ハイヒールでなくローヒールの靴で、腰を冷やさないようにパンツスタイルの服装で、ウールの黒いコートでスーツケースを引きながら、街を歩く。
繁華街の裏路地、小さな間口のチケットショップ、それは表の顔だ。
「すみません。結構時間がかかっちゃいました」
情報屋は、様々な情報と共に、偽造パスポートや身分証明書、運転免許証、そして今回のように「正式な書類」も売っている。それは公的な物であるから、当然、売りに出す持ち主がいるという事だ。大概は、生活に困り、唯一残った自分自身の身分を売りに出す。その後の売り主は、名無しだ。実体はあるが、社会に存在しない人間として生きるか、あるいは死ぬかだ。
「でも、いい出物です。親兄弟は無し、前科も、無し。その分、ちょいと値が張りましたけどね」
中年の、度のキツそうな眼鏡をかけた店主の男は、ミレーヌに封筒を渡した。彼女は中の書類を出して確認する。書類の年令は34歳であったが、その程度の差なら問題無い。
「この人、運転免許証は持ってたの?」
これは大事な所だ。免許取得していれば、そのデータは顔写真と共に警察に残る。店主は事もなげに答える。
「いや、それも無いです。交通網の発達したネオ・トキオで、今どき、わざわざ車を運転する人間なんて少ないっスよ。貧乏人なら、特にね。車を買う金どころか、免許を取りに教習所に行く金も無い」
それなら、安心だ。自分が運転免許を取って、まさに人生を乗り換えられる。
「ありがとう、お世話になったわ。じゃあ、これ」
電話で聞かされた謝礼の入った厚い封筒を、店主に差し出す。金額は、平凡な新車より安いのが皮肉すぎる。手際良く中の札を数えた男は、ありがとございました、またどうぞ、と笑う。
「お元気でね」
それだけ言うと、彼女は店を出た。自分の名前を売った哀れな女の事を、考えないでもない。しかしミレーヌにとっても、新たな公的身分が必要だった。今のままで子供を産むのなら、それはネクライムのミレーヌの子供になる。それは絶対に避けたかった。そのために、新しい身分を求めた。
トキオ駅の女性用化粧室に入った彼女は、携帯用のメイク落としでモード系の化粧を落とし、今度はナチュラルメイクに仕上げる。上げていた髪を下ろすと、ブラシで整えた。爪の色は、とっくにパールベージュに変わってる。
行き先は、もう決めてある。第二の人生、あるいは第三の人生だろうか、そんな事を思ったりする。彼女はホームへ向かう。下ろした髪が、肩と背中で弾んでいた。
情報屋からこっそりと知らせを受けたキャットは、気づかれぬようミレーヌの後を追った。
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