その日、所用から本部に戻って来たミレーヌ・サベリーエワは、少しぼんやりしていた。窓際のソファーに腰を下ろし、肘掛けに左肘をつけて片頬を付き、女盛りのすらりと伸びた美しい脚は組む事も無く、全面ガラスの窓の外、そぼ降る冬の冷たい雨を緑の瞳で、ぼうっと眺めていた。
普段なら、上司からの指令を適格に、手際良くスマートにさばき、部下に指示を出し、自らも動いていた。あるいは上司と酒のグラスを交わし、ひと時の余裕の時間を過ごしている。しかし今日は、部下のジタンダ・フンダがテーブルに置いたワイングラスに口を付けずにいた。
この場所では、お茶の代わりに酒が出る。なにせ部屋の中にバーカンターが設置されているような部屋である。呑ん兵衛には結構な職場と言えるが、アルコール中毒にならぬよう、気をつけねばなるまい。
「どうした? ミレーヌ」
いつもと様子の違う彼女に、グラスを傾けながら若い男が声をかける。この部屋の、そしてクリスタル・ナイツ・ネクライムの主人であるアドルフ・フォン・ルードビッヒである。白のスーツに蝶ネクタイ、金髪に青い瞳の青白い顔の29歳の美男子が、彼女の上司と言うわけだ。
「今日は少し気分がすぐれないの。悪いけど、先に部屋で休ませてもらうわ」
そう言うと席を立ち、本部を出る。ここで働く者の個室、つまり住居は同じフロア内にある。民間企業で言えば社員寮に当たるのだろうが、趣旨はだいぶ違っていた。
「どうしたんドスかねぇ。ここんトコの冷え込みで、お風邪でも召されたんデスかねぇ」
グラスを片付けながら、ジタンダが心配そうな声を出した。まだ20代半ばにも届かない彼は、その背の高さも平均身長に遙かに届いていない小男だ。アフリカ系で褐色の肌に焦茶の髪のモジャモジャ頭、どうにも締まらない語尾に特徴がある。
2052年1月も、じきに末だ。1年で一番寒い時期がやって来る。
犯罪組織としてのクリスタル・ナイツ・ネクライムは、まだ組織固めの過渡にある。
そもそも犯罪帝国ネクライムのナンバー2としての地位にあったルードビッヒは、総統フューラーを追い落とし宇宙に放逐し、組織を手にした。組織の名称も変えた。しかし偶然によりコスモパワーを手にしたフューラーは蘇り、ルードビッヒは死んだ。
彼の死により一度瓦解した組織であったが、その死は、初代総統フューラーと警察機構のウラシマンを対決させるための命を賭けた芝居であった。結果、フューラーはウラシマンの前に破れ去り、邪魔者は消えたわけだ。ルードビッヒの生還を機に、再びネクライマー達が集結する。散り散りになったとはいえ、元の大組織が復活するのなら、そこに戻った方が自分の身の安泰はある。
瓦解の際に隠し資金に手を出して逃げた者達は、震え上がった。ルードビッヒ直属の実働部隊、スティンガー部隊が彼らを捜し出し、相応の礼がなされた。
ネオ・トキオ以外でも複数の隠し資金の場所は存在したし、スイスの銀行にも口座はあった。傷ついたルードビッヒの身体の回復を待ちながら、着々と準備は進められ、昨年中に小さな島国の裏世界は掌握している。
現在ではネオ・トキオの繁華街で15階のビルを買い取り、最上階が本部となっている。目立ち過ぎず、ひそやかに存在していた。
そしてネクライム瓦解後に一度は存在が不要とされた、警察の対ネクライム機構、機動メカ分署マグナポリス38の面々は、ルードビッヒの再起により存続している。憎むべき悪漢の再起が彼らの首をつながらせた、という皮肉である。
マグナポリス38には、ウラシマ・エフェクトにより1983年から2050年にタイムスリップし、それゆえ超能力を得た『ウラシマン』ことウラシマ・リュウが存在している。しかしフューラーとの対決後、ウラシマンとしての超能力が消えた、というか自身で発現させられないウラシマ・リュウは、もはやルードビッヒにとってはどうでもいい存在であり、邪魔をされれば適当に相手をしておく程度でしか無かった。
自室に戻ったミレーヌは結い上げた髪を解き、ベッドに服のまま、横になる。繰り返す思考を、なかなか整理できないでいた。同じ問題を堂々巡りをしている自分が、不快だ。
こんな風に答えを出せないでいるのは、あの2050年の12月10日、ルードビッヒに刃を向けた時、あるいはもっと昔、10代の時かもしれない。そのどちらも彼女は自分で答えを出した。しかし、その答えは「選ばざるを得なかった」ものである。
ネクライムの中で生きると決めた10代、彼女は自分が犯罪者として牢獄に繋がれる事を恐れた。自分の大切な者達を道連れにするのも嫌だった。
ルードビッヒを刺した時、「お前がやらねばワシがやるぞ」父の言葉に恐怖があった。彼女は犯罪帝国ネクライムの総統フューラーの実の娘であり、父により記憶を操作され、長い間、総統の娘である事を忘れていたのだ。その閉じ込められた記憶を解かれた時、父が命じたのがルードビッヒの殺害である。
超常現象のコスモパワーを得た父に、彼が勝てるとは思えなかった。自分の目の前で、父に殺される惨めな彼を見たく無かった。それならいっそ、自分の手で全てを葬り、全てを終わりにしたかった。
今度の悩みは、違う。脅迫的な、選ばざるを得ない答えでは、無い。2つの選択肢のどちらを選ぶのも彼女の自由だ。だが、どちらを選んでも心の痛みが伴うのは明白だ。それゆえに、ぐずぐずと悩み、答えを出す事を恐れている。
ベッドから起き上がり、鏡台の椅子に座る。鏡の中の自分は、頼りなげな顔をしている。右手で、耳たぶの赤いピアスに触れてみる。その指は次に左の二の腕を、腕輪を包み込むように、軽く握った。目を閉じ、その感触を手のひらで感じてみる。
瞼を上げ、再び自分の顔と相対。その瞳からは迷いが消えていた。
「うだうだ悩んだって、仕方ないでしょ。C'est la vie」
これが人生よ、言い聞かせるよう口にして、軽く眉をひそめながら鏡の中の自分に微笑んだ。
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