翌日、ルードビッヒはスイスにいた。北アメリカ地域は旨味が大きいが、掌握にはまだしばらくは時間がかかる。ヨーロッパ地域もクリスタル・ナイツ・ネクライム瓦解後、かつてのヨーロッパ支部の残党が息を吹き返している。今、複数の地域に手を伸ばす事は無謀である。とりあえずの形で、ヨーロッパの残党と相互不可侵の取り決めをする事となっている。
現在、ヨーロッパ・ネクライムを名乗るのは、ベルナール・ユルバンという男だ。ベルナールにしても、まだ不安定な自分の支配地を堅固にしておきたい思惑がある。互いの利益のために、後ろ手にナイフを持ちながら握手をする形だ。
対面の場は、スイスの首都ベルンのホテルレストランの個室。場所をどこにするか事前に調整がなされたが、かつてのルードビッヒの支配地域アジア、ベルナールのいるフランスも、どちらも忌避された。ヨーロッパであっても永世中立を謳うスイスが選ばれる。別に裏の世界で中立は無いが。ルードビッヒからすれば遠い地だが、いたしかたない。
ミシュランの星が付いたレストランの個室は、派手すぎない豪華さがある。テーブルに向かう椅子は人数分あったが、ルードビッヒとベルナールだけが座し、それぞれの背後に部下の者が3名ずつ、控える。ルードビッヒにはウルフ、ベアー、ホークがダークスーツ姿で居た。一般ホテルの中で、戦闘用のコマンドプロテクター姿でいるわけにもいかないので、当然である。無論、スーツの下には防弾ベストに銃器の用意もあるのだが、それはベルナール側も同じであろう。
5階にあるレストランは、個室の窓からも手前の湖と背後に山々が眺望できた。湖は暗い青に沈んでいるが、周辺の木々は雪を被り、遠景の山々も白い衣を被っている。冷たい空気の中に静謐なモノトーンのような世界があった。
「美しい風景ですな」
ルードビッヒは、窓の外を眺めて、口にする。雪を被った山々は美しい。それは彼の好みである。
「ええ。素晴らしいですね。こんな透明感のある絵画のように、我々も澄み切った心で互いの手を取り合えるとは、なんとも清々しい気分ですよ」
白々しいセリフを言うベルナールは、歳の頃は40代前半ほどか。男として、ちょうど脂の乗り切ったあたりだ。美男では無いが、程よく顔に刻まれたシワには男の色気が感じられる。エレガントにスーツを着こなす姿は、昨日の画商を連想させた。ルードビッヒのネクライム統一前、ヨーロッパ支部でトップのレオナルドとソリが合わず冷遇されてきた男、と聞いている。その男が、今、ヨーロッパ地域をまとめ上げようとしている。
ルードビッヒとベルナールは握手をし、互いの不可侵を確認した。必要な話が済むと、形ばかりの調印式が執り行われる。まさにそれは形ばかり、だ。互いが茶番だと思っている。思ってはいるが、それは儀式として成立させておかなければならない。裏社会とは言え、建前は必要なのだ。
あらかじめ作成されていた調印書類に、男2人はそれぞれサインをし、交換する。最後に再び握手をして、調印式は終了した。
「いや、今日はめでたい日だ。酒を運ばせろ」
ベルナールが部下に命じるとオードブルとシャンパンが運ばれ、給仕が景気良く栓を抜き、グラスが満たされる。
先にベルナールがグラスを上げた。
「では、我々の未来に」
どんな未来だ? それはこの状況への皮肉か、ルードビッヒはそう思いながらグラスを上げる。
「我々の健康に」
2人はシャンパングラスに口を付ける。ひと口飲んだところで、おもむろにベルナールが口を開く。それは、軽いジャブだった。
「ああ、ところでレティシア、いや⋯⋯ミレーヌ・サベリーエワは元気ですか? 今日の場に居ないのが残念ですよ」
レティシアは、ミレーヌがパリのホテルバー『銀の猫』に女性バーテンダーとしていた時の名前だ。どうしてこの場で、あの女の名前が出るのか。ルードビッヒは唐突な話題に戸惑った。だからと言って、いずれこの男の耳にも入るだろう事を、今わざわざ教えてやる気にもならない。ミレーヌの名前が出た事で、後ろに控えるスティンガーズも微妙に反応した。無論、心の中で、だ。
「ああ、元気にしている」
ルードビッヒは顔色を変えずに、返答する。そうですか、とベルナールは受けた。
「パリのアヴァンテージ・デ・ルミエールはご存知で? あのホテルのバーに何度か行った事があるんですよ。そこにバーメイドでレティシアって女がいたんですよ。なかなか綺麗な女で、気になりましてね。ただこちらは客で、バーメイドを口説くわけにはいかない。職務への侮辱とも受け取られかねませんから。私は紳士なんですよ。彼女にも隙が無かったですしね。せいぜい2度かな、レティシアを見たのは。気がつくと辞めてた」
軽く広角を上げたベルナールは、当時を思い出しているのか、なにやら楽しそうだ。グラスを再び傾けた。
「ところが、それからどのくらいだったか⋯⋯前のヨーロッパ支部で、美女とすれ違いまして。その時に彼女が微笑んで言うんですよ『ボンジュール、ムシュー・ユルバン』、もちろんこちらも挨拶を交わしたんですが、一瞬誰かわからなくて、彼女が去ってからレティシアだったと気がついた! ははっ、まさか同じ組織にいたなんてね。私も、間抜けだ」
ミレーヌがパリにいた一時期、仮の姿をバーメイドとして活動していたが、ベルナールもあの女に欺かれていた口らしい。ルードビッヒは自分もそうであった事は棚に上げて、少し愉快な気分になる。それにしても自分も時たま訪れていた『銀の猫』でこの男と顔を合わせなかったのは、それはそれで幸運だった。
しかしシャンパングラスから口を離したベルナールは、薄笑いを浮かべて、次はストレートを繰り出した。
「彼女、もし不要になったなら、譲ってくれませんか。私は、熟れた果実も好きでしてね」
紳士と言ったどの口がそれを言うのか。自分に届くかと思われたストレートに、この男、本気で殴ってやろうかと思えたが、
「ははは、面白いご冗談を」
ルードビッヒは殴らずに、ひょいとストレートをかわし、社交辞令で返す。北アメリカが片付いたら貴様を一番に潰してやる、と心に刻んだ事は確かだが。
その様子を目にしていたウルフは、無難に過ぎた事を当然とは思ったが、何も起きずに済んだ、とも安堵する。そしてベルナールの部下達は、彼の性癖に慣れている。『ああ、またか』と心の中で、ため息をつく。女癖の悪さが無ければ優秀な主人なのにと、半分あきらめていた。
2人の男は笑わない目を合わせて、笑った。やがて料理が運ばれてくる。
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