満月のアリア (5) 画廊 1

2021/11/18

二次創作 - 満月のアリア

「少し、出てくる。ひとりでいい」
 翌日11時を過ぎた頃、ルードビッヒは外に出た。3時にはスイスに出立ですよ、とジタンダが声をかけても、そのまま無視して本部を出る。エア・カーを走らせ、ギンザに向かう。空いていた路上パーキングに車を置くと、歩き出した。確かこの辺だった、と柳通りを少し入ったあたりに目指す画廊を見つけた。
 かつてネクライムがマネー・ロンダリングに利用していた画廊、そしてミレーヌの前の男が経営する店。数年前、ルードビッヒがネオ・トキオに着任した頃、彼女を調べて出てきた画廊だ。今でも代わりなく、その店はあった。自動ドアが開くと、
「いらっしゃいませ。どうぞ、ご覧ください」
 品のいい落ち着いた声で、店の奥から男が声を掛ける。薄暗い店の壁には、風景や人物を描いた大小の具象画が掛けられている。開店間もない時間で、他に客は居なかった。ルードビッヒは壁の絵を眺めているふりをしながら、ゆっくりと足を店の奥へ運んだ。視線を絵に向けたまま、声に出す。
「部屋に絵でも飾ろうかと思うのだが、どんな物がいいだろうか」
 若いが、身なりの良さで上客に見えたのか、奥のテーブルを前に座っていた画廊の男は、立ち上がった。

「よろしければ、ご案内させていただけますか」
 にこやかな笑顔を作り、イタリアンテイストのスーツを着こなした男が近づいて来た。中年に差し掛かった男の顔を見ると、以前に見た写真の、あの男だ。色男ぜんとした風体は変わらず、重ねた年が多少のシワを与えていたが、それもまたいい感じに渋味を加えていた。
 ルードビッヒは鷹揚に、店の主人に尋ねる様を装ってみる。
「ああ、すまない。前に、この画廊の事を知人に聞いていてね。ミレーヌ・サベリーエワという方なんだが」
 やや垂れ目の甘さがある店主の顔に、一瞬、緊張があった。だがそれはすぐに消えて、柔和な表情に戻る。
「サベリーエワ様、ですね。はい、ご利用いただいております。ここ数年のご来店はございませんが」
 この男とは本当に切れていたのか。実は今でも関係しているのではないか、ルードビッヒはそんな事を考えながら、男の説明に耳を傾けるふりをして、その顔を観察する。画商は飾る絵について、流れるように言葉を続けていた。
「⋯⋯風景画か人物画かで、お部屋の雰囲気もグッと変わります。例えば、こちらの『草原に立つ女』ですと⋯⋯」
 少し離れた所に掛けた絵を紹介しようとして、言葉が止まった。
「そう言えば、以前サベリーエワ様が捜して欲しいとおっしゃっていた絵画、もしかしたら入荷したのかも知れません」
 画商から柔和な表情が消え、過去を見るように声のトーンが落ちた。

「もしかしたら、と言うのは?」
 マネー・ロンダリング以外で絵を捜していたとは、なんだろうか。ルードビッヒは聞いた覚えが無かった。画商は、他の客の事なので少しためらいを見せたが、すでにキャンセルされた事案だ。初見の客に話し始めた。
「少し変わったリクエストでございます。昔、見た事があるけれど、よく覚えていない。でもとても気に入っていたとおっしゃる。画家はロシア人の男性で名前はわからない。具象画、絵はブロンドの、美しい女性の肖像画または人物像という事です。覚えていないけれど、見ればわかるから、と」
 ミレーヌの出身がロシアだと、ルードビッヒは覚えていた。
「けれどその後、あきらめたからとキャンセルがございました。⋯⋯私も、すっかり忘れていたのですが、先日入荷した物が、それに該当するかもしれません」
「それは興味深い。見せてもらえるかな」
 お待ちください、と画商は奥のドアを開けて、スタッフルームに消えた。ややあって60cm四方に満たない程度の絵を手に、戻った。
 ちょうど昨日額装したところです、と言いながら、男は机と壁を台にして、その絵を立て掛けた。
「ロシアのスチェパン・クジミーチ・サジノヴァ、長いのでスチェパン・サジノヴァで紹介しております。ロシア国内では人気がある画家です。昨年、病死いたしまして、まだ50ちょっとでしたか、若かったですね。風景画がメインで、人物画は若干ですが。アトリエにも絵が残されておりまして、これもその1枚です。彼の初期の作品ですね。ただアトリエにあった絵ですから、やはりサベリーエワ様が捜されていた物とは違うかと。一度ご覧になったとのお話でしたから」
 サジノヴァの絵はロシアでは「そこそこ」の人気だ。だがこの程度なら、営業トークだろう。相手は素人だ、そう踏んで画商は説明する。

 それは肖像になるのだろうか、女の上半身である。椅子に座った女が、装飾のある肘掛けの右側に肘を付き、その手は開いた指を軽く折り、軽くかしげた顔の右頬の顎を受けている。頬杖のために身体は斜めになり、両肩の線は左が前方に出ていた。
 女は夜会服なのか、オフホワイトの、うっすら脂肪の乗ったデコルテまで開いた、肘までの袖で、ドレスには繊細な刺繍が施されている。しかし軽いウェーブのある金色の髪は結う事も無く、肩を超えて流れていた。画面の色調は、金髪に合わせて全体的にブロンズ色を帯びており、猫のようなアーモンドの目と青い瞳の女が、画面のこちらに視線を合わせ、ふっくらした唇の端を上げて、微笑を投げかけている。
 髪は明るいブロンドだったが、ルードビッヒは、その目元と口元に見覚えがあった。キャンバスの右下に「C.K.Caжинова 2026」とサインがある。2026年、これはミレーヌの母親なのか。


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