「大変申し訳ありません、自分は下戸なものですので」
クライドがすまなそうに、総統に断りを入れた。ジタンダは、ジンジャーエールにしときます、と返した。その返事にクライドは今度は、
「お手数かけて、申し訳ありません。ジタンダ先輩」
とジタンダに謝罪する。先輩、と呼ばれたジタンダは、
「へ? ん、ん、いやー、まあ飲めないのは体質の問題だから、仕方無いデスドスな」
まんざらでも無いように、はははっと急に元気を取り戻したようだ。ナツミの方は、今までの一般部署とは違う雰囲気に焦った。
「えっ、お酒、よろしいんですか? 仕事中に。私、あまり強くないんですが。酔うかもしれません」
組織が大きくなればなるほど、管理部門に人が要る。ネクライマーとは言っても、すべてが現場作業では無い。現場がいれば、デスクワークもいるのだ。
憧れのルードビッヒ総統、こんな晴れやかな本部付きになれるとは。今までの努力の評価とは言え、なんという幸運だろうか。ナツミにとってルードビッヒは、憧れの対象であった。
「よい。君らの着任祝いだ。1杯くらい、さして影響無いだろう」
新参者の2人に出鼻を挫かれたが、仕方ない。新しいチームの誕生だ。これもじきに慣れていくだろう。
「君達2人、私とクリスタル・ナイツ・ネクライムのために大いに働いてくれ」
乾杯、とルードビッヒにスティンガー部隊とジタンダと、2人の新人がグラスを飲み干した。ジタンダには、赤いワインがいつもより苦く感じてはいたが。祝杯が済むと、スティンガー達は「では」と部屋を後にした。
「とても美味しいです! すごいですね。本部なら、マイセンのカップにコーヒーを、とか想像していたんですけど、ワインが出てくるとは思いませんでした」
感激したナツミが、興奮しながら話す。ドイツの高級食器メーカー、マイセン。18世紀に誕生したそれは、21世紀になっても名窯としての地位を誇っていた。マイセンのコーヒーカップ、随分と懐かしい単語に、ルードビッヒの心は少し反応した。
「クライド、ナツミ、棚に引き継ぎの書類があるはずだ。今日は、それをチェックしておけ。わからん事はジタンダに聞け」
そう言うと、彼は北アメリカ地域からの報告書に目を通し始めた。クリスタル・ナイツ・ネクラムが一度崩壊した後に、昔のマフィア達が息を吹き返して、群雄割拠の様相を呈していた。ここを、どう攻めるか。散らばってしまったネクライマー達は徐々に小さな集団で固まりつつあった。
「この新たなアジトは、ミ⋯⋯」
顔を振り向きながら口に出して、ルードビッヒは唇を噛んだ。
新人2人の口の固さは当然だろう。しかしミレーヌの不在は、いずれ組織内に知れ渡る。清掃係や料理人だっているのだ。去った女の事をいつまでも隠す必要は無い、箝口令を敷く方が不自然だ。組織を抜けた女を生かしておくのは、捨てた女への総統なりの温情と映るだろうか。それはそれで、ルードビッヒには不愉快であったが。
組織の内情を知る女、殺してしまうのが一番楽だ。ただの裏切りであれば、それも可能だった。残念だな、と言って女に銃口を向ければいい。だが子を宿した女を邪魔だから殺す、というのは醜悪だ。まるで三文芝居、ゲスな三面記事の男のやる事だ。それは彼の美学に反する。だからこそ、彼は女に何もできない。そして女はそれを十分に知っていた。
向こうではクライドとナツミに先輩風を吹かせ、元気を取り戻した、得意そうなジタンダの演説が大声で始まっている。
3日経った。クライドもナツミも仕事の覚えが早く、もはやジタンダのフォローは必要無いくらいだった。デスクが無いと落ち着かない、と新人たちが訴えたので、部屋に合いそうな小ぶりの洒落た机が2つ、搬入されていた。
ルードビッヒは、朝、クライドにメモを渡した。
「すまんが、この者の所在を確かめてくれ。経歴は不要だ。住所だけでいい。生存は不明だが」
耳にしたナツミは、ピクリとした。その言い方は、仕事では無い。プライベートだ。書類棚に用があるふりをして、クライドの後ろに回り込み、メモの文字を盗み見る。
『ロジーナ・ハンナヴァルト、2043年時、ドイツ シュトゥットガルトに居住、当時60歳代』
女の名前、と焦ったが、すぐに年令があったので、何だ、おばあちゃんかと安心する。誰だろう、家族ではなさそうだ。ドイツ、もしかして明日の午後、出立するスイス行きの帰りにドイツに寄る気なのだろうかと想像した。
今回はおばあちゃんだからいいけれど、放っておくと、第2のミレーヌを目論んで、他の女が寄り付くかも知れない。総統とその片腕の女について、口にはせずとも男女関係を疑わない者はいない。早々に手を打っておこう、ナツミは計画を立てる。
夜、ルードヴィッヒの部屋にノックの音がある。開けたドアの向こうにはナツミが立っていた。
「どうした? 何かあったか」
ルードヴィッヒの顔を見たナツミは、顔を伏せ、赤らめた。彼女は昼間のスーツ姿と違い、ワインレッドの膝丈のワンピースで、肘までの袖はレース素材で透けていた。
「あの⋯⋯私に⋯⋯夜伽をお命じいただけませんか。ミレーヌ様はもう居らっしゃいませんし⋯⋯」
そして伏せた顔を上げた。
「若い分、私の方が、お役に立てるかと存じます」
ルードビッヒは片方の眉を、軽くひそめた。
「不要だ。お前は与えれらた仕事をしていればよい。下がれ」
彼は不快な思いでドアを閉める。あんな小娘が、己とミレーヌを同列に考えた事が腹立たしかった。
ナツミの目の前で、ドアは閉じられた。失敗だった。麗しのルードビッヒ様に、と浮かれてみたが、英雄、色を好むではないのか。若くして極東支部を治め、フューラー総統を追い落とし、クリスタル・ナイツ・ネクライムで裏世界を掌握したルードビッヒは、彼女にとって英雄だった。彼の死と組織の瓦解には絶望と悲嘆に暮れたが、生還を知った時の喜びときたら!
廊下に取り残されたナツミは、ため息をついて自室へ足を向ける。
「まだ、早かったのかなぁ」
あと1、2ヶ月もすれば女を所望されるかもしれない。その時まで、この身を磨いておこう。ナツミは前向きに考え直した。
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