満月のアリア (2) 告知 2

2021/11/12

二次創作 - 満月のアリア

「ミレーヌ様、もうお体は、よろしいんでございマスデスか」
 一度決めてしまえば、翌日は気分が良かった。ジタンダに大丈夫よ、と答えながら、彼女は今日、やらねばならない仕事に取り掛かる。コンピュータで各部署ごとに人員リストを眺め、精査していく。
 本部は、ルードビッヒの趣味でバーカウンターが設置され、酒瓶が並んでいる。どこかのバーの中で仕事をしているような光景だが、彼らはそれに慣れている。むしろ、そんな余裕の趣味を持つ主人を頼もしく思っていた。少々飲み過ぎのきらいはあるが。
 今日は、急ぎの事案は無かった。夕刻、ミレーヌはルードビッヒに声をかける。
「今夜、お話があるの。夕食の後に、時間をもらえるかしら?」
 こんな風に本部内で彼女が言うのは、珍しい。彼は、いささかの違和感を持ってその言葉を耳にする。時たまの2人の秘め事は、互いの個室への電話連絡が常である。
 かまわんよ、と答える彼に、ミレーヌはお部屋に伺うわ、と返した。それもまた、変だった。彼女がルードビッヒの部屋に来る事は、ほぼ無い。かと言って、仕事の話を昼間の本部でなく、夜の時間を指定しているのが妙である。
 バーカウンターの内側の流しでワイングラスを洗っているジタンダは気がついた。あれ? そう言えばミレーヌ様、今日もワインを召し上がって無いドスダスな。まだ体調が悪いんデスかねぇ。

 ミレーヌが薄い書類ファイルを手に、ルードビッヒの部屋を訪れた。やはり仕事の話か、昼間で他の者に聞かれてマズい話か。ベッドでなく肘掛け椅子を勧め、彼はその向かいのソファーに座る。濃緑の、膝より長いシックなワンピースを着たミレーヌは、書類ファイルをテーブルに置くと、椅子に腰掛けた。
 笑顔でルードビッヒの目を正面から見つめ、ふっくらした赤い唇が開いた。
「私、妊娠したわ」
 彼女は単刀直入に、そう言った。
「もう少しで3ヶ月よ」
 彼の目は軽く見開き、しかしすぐに元に戻る。心当たりは十二分にあったが、こんな時の世間の男達と同じように、しかし口調は冷静に、たずねる。

「私の子か?」
「誰の子だ、と聞かないだけ、マシな質問ね」
 首をかしげて、ふふっと笑ったミレーヌは、
「あなたの子よ」
 と、答えた。
「去年のバタバタしている頃に、避妊薬ピルを飲み忘れた事があったの」
 無言でいる男に、彼女は笑顔のまま彼の顔を見つめ、昨日の答えを口にする。
「産む事にしたわ。まあ、私にも母性があったという事かしら?」
「産む気か?」
 思いもよらないセリフに、再び彼の目が見開いた。これもまた世間の男達と同様に、その程度の言葉しか出てこない。
「そう。だからもう、ここには居られないわ。ごめんなさいね。組織はこれからだと言うのに。ファイルに今後のスタッフ候補をまとめてあるわ。男女、合わせて5人、その中から選んでみて。引き継ぎ書類は、本部の書棚にあるわ」
 ミレーヌは椅子から立ち上がると、ルードビッヒの横に腰を下ろした。そして自分の両の手のひらで、彼の両頬を優しく包み、その顔を自分に向けさせた。
「楽しかったわ。ありがとう」
 女の柔らかい唇が近づき、ルードビッヒのそれに重なる。彼女の唇が彼の唇を、軽く吸った。男は、目を閉じる事ができないでいた。
 まぶたを開いた女は、男の顔をじっと見つめ、赤い唇の端をわずかに上げた。
 ミレーヌは立ち上がり、
「さようなら、ルードビッヒ」
 優雅に笑うと、ドアの向こうに消えた。

 部屋には、かすかに女の香水の香りが残っているように感じた。
 自分の子供と言われても、男にはピンとこない。いつか、その魅惑的な身体の腹が膨らみ、見知らぬ物体がこの世に生を受けて出てくるのだと、理屈では理解できても、実感は伴わなかった。
 お互い割り切った、了解済みの関係だと思っていた。愛のささやきなど、無かった。部下であり、時たまにベッドも共にしていただけだ。
 なぜあの女は子供を産もうとしているのだろう、母性と言っていたが、女とはそういうものなのだろうか。ルードビッヒには女の行動が理解できない。
 彼は悪の駆け引き、策謀には頭が回ったが、己の野心を満たすために不要な、女という生き物を理解するには、情熱も、それを伴う経験も足りなかった。
 かつての婚約者、大富豪のひとり娘ジョセフィーヌ・キャッツバーグ。彼の目的が彼女ではなく、父親の財産である事を知り、身を投げ、死んだ。それ以降、溶解しない不可解な感情が、いつまでも彼の心を縛り続けている。ジョセフィーヌが事切れる前に彼の手に残した懐中時計は、今でも彼の上着の内ポケットにある。
 ジョセフィーヌの後に、長く続いた女はミレーヌだけだ。その時々で一夜の女はいたが、次の夜を考える気は起きなかった。彼女との仲が続いたのは部下だったせいではあるが、そもそも、部下の女に手を出す気など無かった。女のために、あれこれと面倒事はごめんだ。

 しかし、彼は自ら動いてミレーヌを手に入れてしまった。そして彼女は、つまらぬ面倒事を起こすような女ではなかった。昼と夜に線を引き、仕事は有能であり、夜は魅惑的であった。そして甘美な夜の結果すらも、彼女はその後を自分で決め、去った。
 初代総統フューラーとの一騎討ち、その演目の後「二度と裏切りはしない」あの女はそう口にした。だがこれは、裏切りではないのか。彼が従えるチームで、彼女は要職にある。しかし嫌がる女を無理やり堕胎させるわけにもいかない。それは良心などと言う物の問題では無い。そんな情けない仕事を他の部下に命じるなど、彼の美学にとってあり得ないのだ。彼自身が手を下す事は、醜態でしかない。
 そしてルードビッヒは、ミレーヌを知っている。力づくで自分を動かそうとする者を、あの女は許さないだろう、私に軽蔑の目を向けるだけだ。そんな女だ。二度と戻っては来ない。
 チェック・メイト。女がその手を選んだ時、男の負けは決まっていた。彼のキングの前に彼女のクイーンが置かれ、その斜め後ろにはポーンが守りとして控えている。勝負のついたゲームに女は背を向け、盤上から去った。
 面倒を起こさない女、確かにそうだ。ヒステリックに叫び出すでなく、何を哀願するわけでなく、ただ現実を伝えて、去った。彼は、ただのゲームが終わった事を悟る。女の指が、長い赤い爪が、ルードビッヒの心臓に爪を立てた。その痛みは、かつて感じたものに似ていたかもしれない。
 だが彼はその痛みを、無視する。新たなメンバーを加えれば良いだけの事、男はグラスにコニャックを注ぐと、一気に傾け、空にした。


小説の匣

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