翌日の朝食の席に、ミレーヌの姿は無かった。いつもなら4人掛けのテーブルに、ルードビッヒとミレーヌが斜向かいに居るはずなのに、今朝は男がひとり、座るだけである。彼は無言で食べていたが、あまり食欲が無いようだ。給仕をするジタンダは少し不安になる。
「ミレーヌ様、どうされたんドスかねえ。お体の具合が⋯⋯」
そう口にした所で、ギロリと自分に向けられた主人の不機嫌な目と視線が合った。ジタンダはあわてて目を伏せ、その口を閉じた。何やら朝からルードビッヒ様はご不快の様子、何も言わない方がいい。それにしても、こんな主人は珍しかった。何か叱責を受けるにしても相応の理由があるものだが、無言で向けられた瞳は、主人には珍しく感情的なものを感じたのだ。昨夜、ミレーヌ様と打ち合わせがあったはずだから、いったいそこで何があったのか、ジタンダは落ち着かなくなる。
給仕を終えた後の自分の朝食もそこそこに、ジタンダはミレーヌの部屋をノックする。何も返事が無く、ドアは鍵が掛かって無い。そっと開けた彼は、ミレーヌ様、と呼んでみるが、応えは返らない。部屋の中に入って彼女を捜してみるが、どこにも居ない。部屋にも、バスルームにも。
「ミレーヌ様?」
何が起こったのか、ぽかんと見開いた目と口で、彼は思考が停止する。鏡台の上に、タバコの箱と、瀟酒な細工の施された銀色のライターが残っていた。
「ミレーヌは、ネクライムを去った。新たなメンバーを1人か2人、このファイルの中から選んで招喚しておけ」
ルードビッヒは、女の残したファイルを自分の机の上に投げ置くと、ジタンダと、呼び出されたスティンガー部隊5名に命じた。
スティンガー部隊は、そもそも初代総統フューラー直属の実働部隊であったが、フューラーの命により、極東支部にルードビッヒが就任して以来は、その元に置かれた。そして彼の悪の美学を唱える実行力に魅了され、フューラーで無く、ルードビッヒ自身に忠誠を誓い、初代総統を追い落としている。
ぎえ〜っ、とジタンダが叫んだ。
「な、な、なんでまた? どうしてダス!」
ジタンダは主人に迫るように理由を問うが、総統は視線を合わせなかった。
叫んだ小男は、ミレーヌがヨーロッパ支部の下っ端から引き上げて、ネオ・トキオに連れて来た。ルードビッヒに仕えたジタンダは、その生き方に強く影響を受け、心酔し忠誠を誓ったが、ミレーヌに対する感謝と思慕も忘れていない。ただ、なぜ自分を引き上げてくれたのかは、未だにわからないが。
「気まぐれだ。捨てて置け」
それきり窓の外を向いた、明らかに機嫌の悪そうな主人に、ジタンダもスティンガー達も何も言えなくなる。突然の降板劇に、各々が探るような目を合わせてみただけだった。
ファイルからは男女、1名ずつが選ばれた。ジタンダはミレーヌの消えたショックが強く、選べるような状態では無かったので、スティンガー部隊の隊長ウルフと紅一点のキャットが評議し、選び、それぞれに通達が出される。
「今日は土曜日ですので、両名のシフト次第ですが、どう早くても異動は来週になると思います」
人事に連絡を入れたキャットが主人に伝え、では、と用の済んだスティンガー部隊は部屋を後にした。
「ルードビッヒ様は、ああ言われたが、ミレーヌ様の居場所は特定しておけ」
本部を出ると、ウルフは小声でキャットに囁く。
「もちろん」
横目でウルフの顔を見たキャットは、にっ、と笑った。それくらい、言われなくても、わかってる。
降板劇の理由は知れなかったが、主人の不機嫌そうな顔と、組織を抜けるのに捨てて置けという不可解な言葉。原則、組織を抜けるとは死を意味している。プライベートな事だろうと察しはついたが、ウルフもキャットも、他のスティンガー達も、それを口にするのは憚られた。
週が明けて火曜日、召喚された2名が顔を出す。慌ただしい部署異動は、さぞや大変だったろうと想像できた。本部に顔を出した2人に、未だ調子の出ないジタンダが、普段よりずっと落ち着いた声で紹介する。
「総統ルードビッヒ様の事は、言うまでもありませんデスダス。ワタクシ、ジタンダ・フンダはお前達の先輩となるんドス。そして、あちらが精鋭部隊のスティンガーズの5人」
紹介されたスティンガー部隊は、それぞれに名乗りを上げる。その後に新人達だ。
「坂下ナツミと申します。この度は、クリスタル・ナイツ・ネクライムの本部付きとなりました事を光栄に存じます。精一杯、精進させていただきます」
ブルーグレーのスカートスーツ姿の23歳。ストレートな黒髪が肩より長くあり、東洋人のわりには頬骨や鼻筋が高く、彼女の場合はそれが目立って欠点とも言われるかもしれない。しかし美女ではある。じっと見つめる意思の強そうな目で、それを強調するような化粧をしていた。ネクライム内の女性比率は15%に満たない。ナツミは営業本部にいた。候補としてリストアップされたのだから、優秀であろうと思われた。無論、営業とは裏稼業の営業である。
「クライド・ヒーズマンです。ルードビッヒ様のお役に立てるよう、粉骨砕身、働く所存です」
ダークスーツの25歳、アフリカ系で肌は浅黒く、黒い瞳の目は細めだった。ウェーブの強い短髪に190cmを超える身長は、ジャケットの胸の厚みから筋肉質の身体がうかがえた。物静かな風情であったが、この場に居る以上、内気な性格のはずは無いだろう。彼は実働部隊からの異動である。
その場の全員の紹介が済んだ所で、ナツミが再び口を開く。
「あの、ミレーヌ様は?」
場が、凍りついた。その緊張感を、ナツミもクライドもすぐに肌に感じる。
通常なら「サベリーエワ様」だが、ルードビッヒがファーストネームの「ミレーヌ」と呼び、それに応じてジタンダ達も「ミレーヌ様」と呼ぶので、組織内でも呼び名はミレーヌ様になっている。ルードビッヒの片腕の美女として、姿を見た事の無い者でも話くらいは聞いている。
どう答えていいものか、ジタンダが焦っていると、ルードビッヒが応える。
「ミレーヌは、去った。その代わりが、お前達だ」
つまり、さっきの奇妙な張り詰めた空気は、そういう意味か。新人の2人は納得する。これ以上の質問は控えるべきだろう、と。
さっさと新体制に移るべきだ、ルードビッヒはジタンダの方を向き、
「ジタンダ、ワインを」
祝杯を所望する。へぇ、と力無く答えたジタンダは、グラスを並べ始めた。
0 件のコメント:
コメントを投稿