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夜の爪あと (5) バー 銀の猫 2

2025/05/30

二次創作 - 夜の爪あと

「ああ⋯⋯こんな偶然があるんですね。でもよく私の顔を覚えてましたね」
 思い出した彼の言葉に、バーメイドは薄く笑う。彼女から声をかけなければ、ジェロームは気づかないでいただろう。それでも薄暗がりの店の中で彼女の端正な顔立ちと声は、あの女性であったと思い出すには十分であった。胸には名札が付いており「バースタッフ レティ」とある。おそらくレティは愛称だろう。本名を記すと面倒ごとがあるから、通称にしているのかと思えた。
「ネクタイクリップが印象に残っておりましたので、お顔を見てすぐに思い出しました。靴の方は大丈夫でしたでしょうか?」
 ああ、と納得がいった。今日、ジェロームのネクタイについているクリップはパイプを形どっており、たしかにあの日も付けていた。彼自身はパイプは嗜まなかったが、名探偵の印のようなそれはミステリーファンである彼としては気に入っていて、よく付けているのだ。
「大丈夫です。あの時言ったように、靴の方は気にしないでください」
 そう言われたレティは、また薄く笑った。
「不躾なお声がけで申しわけありません。わたしが何も言わずにお客さまの方が気づいて不快な思いをされても困りますので、お知らせいたしました」

 彼女の言わんとしている事は納得できる。知らぬふりで後で気づく気まずさよりは、先に口にしてしまった方が良い。
「あなたの印象がずいぶん変わったので、気づきませんでした。いえ、悪い意味でなく」
 良家の子女か、ホワイト・カラーの女性だと思い込んでいたのは確かであったが、さすがにそれを口にするのは職業蔑視である。悟られないように彼は最後の言葉を付け加えた。
「あの日はせっかくパリに来たので、ガルニエでオペラを観たかったのです。高価な席は無理でも、行くからにはおしゃれもしたいのが女ですから。服もアクセサリーもレンタルですけれど」
 恥じらう事もなく答えた彼女の微笑は、凛としていた。だが彼が夢見てしまったのは、あのガルニエの黄金の光の中で咲き誇るような彼女の姿や雰囲気が、自分と同等の世界に属しているように感じたからなのだ。格式あるホテルとは言え、バー勤務の女性とは思わなかった。
 彼の夢想は、あのガルニエ宮の光と共に強く残った。ふと思い出すおりには少しばかりの後悔を含みながら。やはり連絡先くらいは交換しておけば良かったとのではないか。再びオペラ公演で彼女に出会う可能性を考えても、たまたま彼女が観劇する時に自分も居合わせるなど、奇跡のような偶然でも無い限り、あり得そうもない。
 今では、あれはガルニエの見せた夢だったのだと思っていた。

 彼は、ささやかな夢想の相手がバーメイドであった事に、少なからず失望を感じた。自分と彼女とでは、生きる世界が違っていた。再び出会えた幸運ではあったが、それは現実を突きつけてきた。
 学生時代に同窓のガールフレンドはいたが、互いに仕事を持ち、時間のすれ違いが続くと関係は薄れ、別れた。仕事がらみで知り合い、交際した女もいたが、彼女たちにしても弁護士事務所や金融機関で仕事をしているホワイト・カラーであった。それは彼の住む世界として、自然の選択である。
 この国では自分の社会階層を意識して生きるのが当たり前だ。階層ごとに集団は違い、それが生き方や生活様式、文化や価値観の違いになる。人々は同じ階層の中から、友人を選び、パートナーを選ぶ。連綿と続く階層社会は21世紀の半ばであっても、人々の意識の中に色濃く残っている。それは差別ではなく、区別なのだ。ジェロームもまた、そういった社会構造の中で生まれ育ってきた。
 しかしそんな思いを態度に表すわけにはいかない。
「ガルニエの舞台は楽しめましたか?」
「ええ、とても素敵でした。ヴィオレッタ役のエリザベッタ・ロッシがとても良くて」
 彼女の返答に、物見遊山のオペラ鑑賞ではなかったのか、と思えた。

「この店には最近ですか?」
「まだ1週間も経っておりません。以前はリヨンの街のバーにいました。でもやはりパリで腕を磨きたいので、こちらにお世話になりました。今は見習いです」
 なるほど、だからこの酒、と言うのもあるのかと彼はグラスを眺めながら納得する。たしかブラッディメアリーはカクテルの技法としては一番簡単な、ビルドだ。
「飲み物は、これで結構です。確かに体に良さそうだ。それじゃ、あとはナッツをください」
 承知しました、と女は背を向けた。
 やや気落ちした彼はタンブラーに口を付けたが、そのグラスは驚くほど薄かった。唇がひた、と吸い付くような口触りは初めての感覚である。まるでグラスが消えてしまったかのように、口に流したブラッディーメアリーは、ジェロームの喉をトロリと過ぎ去り、胃の中でじわりとウォッカが広がる。液体の通った跡が、ほんのり温かい。
 程なく彼の前に小さな器に入ったミックスナッツが置かれると、彼はまた彼女と相対する。普段なら注文した後は、外のテラス席でタバコを取り出している所だが、今日はその気が失せた。

「このタンブラーは⋯⋯なんて薄いんでしょうか」
 彼の声に、レティは目を細めた。
「お気づきになりますわよね。とても薄いんです。厚さが1ミリも無いんですって。少し前にネオ・トキオから来たガラス器の営業マンから紹介されたそうです」
「こんな口触りのグラスなんて、初めてですよ」
「ええ。すばらしい口当たりなんです。でも形がシンプルすぎて、あまりこの店ではお出しできませんの。場所柄、豪華なグラスを望まれるお客様が多いですから。でもリーデルやバカラでもこんなに薄い飲み口リムのタンブラーはありませんし」
 たしかに、そのグラスは何の飾りも無い、飲み口に向かって少し広がっているだけの、ひたすらにシンプルな筒だった。このバーで供される酒を注ぐには、シンプル過ぎるのかもしれない。
「あまりに素敵な口当たりなので、粋狂なお客様なら面白がっていただけるかと、マネージャーが少しだけ入れたんです。手作りですが、価格はとてもお手頃だそうです」
「この薄さで手作りですか、すごいですね。東洋の人は手先が器用なんでしょうね」
 ジェロームは再びグラスを傾けた。唇に触れる薄い飲み口は、うっとりするほどの快楽がある。
 とても美味しい、とグラスを置いた彼に、彼女は「きっとグラスのおかげで私のカクテルでも数段美味しく感じるのですわ」と笑みを返した。
 ブラッディメアリーは彼の体を温めたが、ガルニエでの華やいでいた心は沈んでいった。
 ガルニエの薔薇は、この店ではすらりと立ち上がる茎に白い花弁のカラーのようだった。醒めた幻を弔うように、とろみのある赤い液体を喉に流した。

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