横たわる男の体は、すでに自分の意思で動けないようだ。身体の痛みさえも随分と遠くに感じるくらいである。そもそも、どうしてこんな事になったのか、彼は最初に感じた自分の勘を信じるべきだったと後悔した。関わっていい女では無かったのだ、と。
それでも⋯⋯せめて最期は死の口づけくらいはしてくれないだろうかと、つまらない期待を抱いた。自分の滑稽さに笑いたくなったが、もう声も出なかった。
目の前にいるであろう女が、何か言った。だがそれはすでに男の耳には届かなかった。
彼の視界の端に黒い小さな点が現れ、ぼんやりと同心円に広がった。その黒い円が広がりきる前に、少し離れた場所にまた同じように円が広がる。それがいくつもいくつも現れては視界を遮り、やがてすべてが闇に覆われ、彼はその闇に沈んだ。
古書店にて
この店になら、あるかもしれない。本日3件目の古本屋ではあったが、ジェローム・ラギエは期待を込めて『パルナスの本』のドアを開けた。ポワソニエール大通りから1本裏通りに入った所にある小さな店だ。
ここ数日、仕事帰りにパリの古書店をのぞいては目的の本を探していたが見つからなかった。古書店の多いカルチェラタンなどは最初の頃に、とっくに回っていたが見つからない。そうなると逆にどうしても手に入れたい欲がわく。土曜の今日は何としても探し出してやろうという気になって古書店をハシゴしていた。そして職場から近い場所にある店を失念していた事に気づいた。それがこの店である。
背の高い本棚に小ぎれいに陳列されてはいても、やはり店内には特有の古い本の匂いがする。だが彼はこの少し甘いような匂いが嫌いではなかった。むしろ、本たちが出迎えてくれたような気分になる。
文芸系の本をメインとした店は、いくつかに並ぶ本棚の間の通路は大人2人がようやくすれ違える程度だ。先客の男が手にした本をめくっていたが、ジェロームはその背中を「失敬」と言って通り過ぎた。店のドアから奥、レジカウンターまで、せいぜい8歩も歩けば辿り着く。レジの向こうに座って雑誌を読んでいる年老いた男の店主に声をかける。
「カミーユ・ベルナールの本はありますか?」
ああそれならと、店主は先客が立っている方に手を向けた。
「何か、お探しで?」店の本をすべて把握でもしているかのように店主は尋ねる。
「ええ、『女神の仮面』が欲しいのですが」
その問いに店主が答えるより早く、ジェロームの背中側から答えが返った。
「この本ですか?」
ジェロームは上半身をよじり、声を発した先客の男の方に顔を向けた。男は開いていた本を閉じ、その表紙をこちらに向けている。店主に軽く手を挙げて、ジェロームは男の前まで歩み寄る。
彼より5つ6つは年上だろう。40を少し過ぎたあたりの男は、土曜日の古書店には不似合いなスーツ姿。その顔は細面で短髪の黒髪を整髪料できれいに撫で付け、銀縁メガネがいかにもインテリ風である。休日の古書店巡り、適当に選んだグレーのパンツにネイビーのシャツ1枚で、ボサつくブラウンの髪に櫛くらいは通した程度のジェロームとはずいぶんな違いだ。
「その本、購入されるんですか?」
ようやく見つけた目当ての本に、一足遅れたジェロームは残念な顔をしていたのだろう。銀縁メガネの男は、ややの間を置いて、口を開いた。
「いえ、懐かしいなとめくっていただけです。昔、面白く読んだものですから。どうぞ、私はかまいませんよ。たぶん実家の本棚に残っているでしょうから」
そう言い、手に持つポケットサイズの本をジェロームの前に差し出した。
「よろしいですか? ありがとうございます。古い本なのでなかなか見つからなくて。新刊は絶版のようで中古で探すしかないかと思って、今日もここで3軒目なんです」
本を受け取りながら、ジェロームは謝意を口にした。
「もう50年以上も前の本ですからね。私が学生の時に読んだのも中古本でした。ところで、どうしてこの本をお探しですか? もう他界してますが、最近、この作家にハマったとか?」
そう尋ねられたが、ジェロームは言葉にするのをためらった。確かにこの本を求めてはいたのだが、その理由は作者のカミーユ・ベルナールにあるわけではないからだ。銀縁メガネの男はベルナールのファンかもしれない。自分の理由を不快に感じないだろうかと、視線を落としがちに、おずおずと口にする。
「いえ⋯⋯実は別の作家の新刊で。雑誌のインタビュー記事で、古い小説を読んだらインスピレーションを感じて、新刊を書いたとあったので。その新刊がとても良かったので、創造元の小説も読んでみたいなと思いまして」
銀縁メガネは不快な様子を見せるでもなく、笑顔を見せた。
「ほお。それは面白いですね。その新刊のタイトルは何ですか? 逆に私も興味がわきましたよ」
「ミステリー作家のマチュー・ヴァロワ、『暗い森の道』です」
「マチュー・ヴァロワ、人気のミステリー作家ですね。読んだことはありませんが、広告などで名前は知っています」
柔和なメガネ男の表情に気を良くして、ジェロームはうつむきがちだった顔を上げ、相手の目を見ながら話し出した。
「今までも色々なタイプのミステリーを書いています。謎解きや密室、探偵もの、警察もの、倒叙もの。私としては、全部が全部好きというわけではありませんが⋯⋯物足りない作品もありますしね、でも今回の本はファム・ファタールのごとき女と男の話で、今までで一番か二番に面白かったです。ヴァロワはこんな話も書くんだという驚きも含めて」
読み終えた時の興奮を思い出したのか、ジェロームは見開いた眼で出版社の宣伝マンのように褒め称えた。
「なんというか、今まで彼が書いたスタイルとは変わって、ノワール小説なんです。評判も良くて、もしかしたら私と同じように記事を読んだファンたちがこの本を買ったせいで見つからないのかもしれませんね」
ノワールは犯罪者や暗黒街を書く小説スタイルだ。犯罪を描くことによって、人間を描き出す。
「ではあなたは幸運にも、その本を手にしたわけですね」
文学青年のように情熱をこめて語り出したジェロームを、メガネ男は鷹揚に受け止めた。
「カミーユ・ベルナールはミステリ作家ではありませんが、『女神の仮面』はある種、ミステリーに近いかもしれません。ピカレスクとも言える。合法と非合法の境目みたいな所を綱渡りで生きた、女の話です。ですから、それに触発された小説がノワールになるのも、納得と思えますね」
そんな風に評された本は、事前情報以上にジェロームの興味を掻き立てた。
「とてもいいですね。ワクワクしますよ。帰ったら、楽しみに読みます」
ジェロームは手にした本に目をやると、好奇心満々の笑顔を見せる。
「私もあなたの言う新作を読んでみたくなりました。この近所に大型書店もありましたね。買ってみますよ」
「それは面白いですね。知り合った同士がそれぞれに本を読むなんて。『暗い森の道』、楽しんでください。ノワールとは言っても残虐表現はありませんし、じわりじわりとサスペンス的要素で怖さと哀しみが迫ってきます」
「哀しみ⋯⋯哀愁ですね。そういう話もいい。そんな話に惹かれる我々は、人生に少々疲れているのかもしれませんね。⋯⋯おっと、いっしょにしては失礼だった」
メガネ男は品のいい笑いを作った。
「まあ、ここで立ち話もなんですから、レジへどうぞ」
確かにそうだ。他に客がいないとはいえ、いつまでも立ち話でこの場を占領するわけにはいかない。男ふたりが長々と立ち話など見苦しいだろう。
ジェロームが『女神の仮面』を店主に渡すと、レジスターのボタンが押された。
共に古書店から出る時に、メガネ男は彼に名刺を差し出していた。
「フリーランスなものですから、どんな出会いでも大切です。どこで仕事に繋がるかもしれませんしね。ご用がありましたら、ぜひご相談ください。もちろん本の感想を語らう酒場でも大歓迎ですよ」
休日に名刺など持ち合わせていなかったジェロームは名乗るだけで、彼から名刺を受け取った。名刺には戦略コンサルタントとあり、彼の醸し出す雰囲気に納得した。とりあえず今の自分には関わることはないだろうと思えた。
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