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夜の爪あと (3) ガルニエの薔薇

2025/05/23

二次創作 - 夜の爪あと

「すべては愛のためだとは、あなたにはわからないわね」
 オペラ『ラ・トラヴィアータ』の第二幕は終盤を迎えていた。アレクサンドル・デュマ・フィスの小説『椿姫』を元にした物語である。高級娼婦のヴィオレッタは青年アルフレードとの日々に幸福を感じてはいたが、彼の父親から別れを説得され、嘘をついて身を引く。彼女の心変わりに、アルフレードは失恋と嫉妬の怒りから、遊び仲間たちの前でヴィオレッタを激しく侮辱する。その場に来た彼の父は、息子の無礼な行為に憤慨(ふんがい)しながらも、彼女の真実を口にはしない。
「私は死んでもなお、愛し続けるわ」
 ヴィオレッタの哀しいソプラノが響く中、自らの行為を後悔し彼女への愛に苦しむアルフレードと、彼女の誠実な愛を知る父は沈黙を続けるよう己を律する心情が重なる。
「私は死んでもなお、愛し続けるわ⋯⋯」
 あふれる涙をぬぐうんだ、とその場の人々の合唱が加わり、ヴィオレッタのパトロン、ドゥフォール男爵が決闘の申し込みである白い手袋をアルフレードに投げつけ、幕が降りた。

 拍手が会場内に鳴り響き、やがて休憩時間のために客席が明るくなる。シャガールの天井画もシャンデリアの光を受けて姿を表す。昔ながらの馬蹄型のホールは、ふんだんに装飾が施された内装が、煌びやかに金色で溢れている。ここはパリのガルニエ宮である。
 ホール内の客たちが休憩のために席を立ち始め、拍手の手を置いたジェローム・ラギエもまた椅子から立ち上がった。まずは赤い絨毯を踏みながらトイレへと向かう。すれ違う人々の間から、華やかな装いのカップルが談笑しながら前広間アヴァン・フォワイエへ消えていくのが見えた。彼は小用を済ませると、休憩室で何か飲もうかと考えながら、ゆったりとした足取りで歩き出した。
 19世紀に完成したガルニエ宮は、ネオ・バロック様式の絢爛豪華な歌劇場である。メイン・エントランスの大理石の大階段の周囲には、豪奢な装飾のブロンズ製の照明が淡いオレンジ色に光り、夢舞台への道程を彩る。実のところガルニエ宮の外観を眺めた時から、その世界は始まっている。その大階段はさあどうぞ、と訪れる観客の心を盛り上げる舞台装置なのだ。
 20世紀の末ごろ、東に3.5kmほど離れた12区にオペラ・バスティーユが建造されてからは、ガルニエ宮はバレエ公演がメインとなっていた。しかし月に数回はオペラ公演がある。バスティーユの方が近代的で設備も良く、ジェロームの住まいからはごく近いのだが、重厚に年代を感じるガルニエの方が舞台という夢に浸れるゆえに、彼はそれを楽しみに来ていた。

 すでに20世紀末にはオペラは古い舞台芸術であり、フランス人の3分の2は一生オペラに行く事は無いと言われていた。現代ならその数は、もっと増えているだろう。
 ただ歴史的、文化的に重要なものであるのは確かなため、政府からの支援がある。その支援額が多すぎるのではないかと言われる事もしばしばだ。一方、国に多大な収益をもたらしている観光業の中で、ガルニエ宮はパリの観光アイコンのひとつとして、ふさわしい輝きを持っていた。館内見学コースは旅行者の定番であるし、バレエやオペラもまた、外国人旅行者が少なくない割合を占めていた。自国では若者が古臭いと思うものでも、他国から見ればその国ならではの文化芸術であり、憧れの対象になるのだ。
 言うなれば今のオペラの客層は年配者か、旅行者なのだ。21世紀も半ばになろうとする時代に、エリート主義とかブルジョワ趣味とか言われるオペラを、ジェロームのような30代の男が好んで行くのは珍しかった。
 ジェロームは母親がピアノ教師で、幼い頃よりクラシック音楽に馴染みがあり、多少は教えられて鍵盤を叩きもしていた。ただピアノを練習するよりかは友人と遊ぶ方が面白かったし、母も無理強いはしなかった。あるいは息子の才能の無さに見切りをつけていたのかもしれない。そして長じた今ではクラシックコンサートよりも、オペラの方によほど面白みを感じている。とはいえ、こうしてオペラ鑑賞に興味を持ち出したのはここ数年の事だ。面白い小説を読むのと同じだ。舞台という非日常的な空間で、夢を見る。

 オペラが斜陽であっても、それなりにマニアもいる。そして今日の演目では人気の高いエリザベッタ・ロッシがヴィオレッタ役である。週末の公演はいい席が取れなかったため、今日は仕事帰りでここに来ていた。2階正面桟敷の1列目だ。開演は午後7時半なので十分間に合う時間だ。
 2000を超える客席、各階に休憩室があるとはいえ、この建築の名物でもある大広間グラン・フォワイエの手前アヴァン・フォワイエでは数箇所に配置されたバーカウンターには飲料や軽食を求める人々が行列を作っている。長い回廊には丸テーブルと簡易椅子のセットもそこここに置かれ、周囲はグラスを片手に談笑する人々のざわめきがある。パートナー文化の根強いこの国、オペラ観劇ならことさらに、パートナーと共に来ている客が多い。友人や家族と来る人もいるだろうが、ジェロームのようにソロの客は少ないのだ。
 友人や親族との集まり、パーティー、レストランでの食事、旅行、社交的な場において常にパートナーとの同伴を求める圧力がある。しかしこの数十年で人々の意識に多少の変化はあった。ひとりで行動するのは「変わり者」とみなされた20世紀に比べれば、あまり奇異の目を向けられなくなってはいる。そして彼はひとりで来ている事に何の不満もない。友人を誘って義理で時間を共にしても、相手は苦痛なだけだろう。自分ひとりで夢に浸る方がいい。

 シャンパングラスを手にして、グラン・フォワイエへと進み、壁面そばの立位用の丸テーブルに落ち着いた。見事な装飾の柱や壁、天井のフレスコ画を仰ぎ眺めながら、今日の公演は当たりだなと、ひとり満足の中でグラスを傾ける。
 公演内容を思い返して、先のペルシエとの歓談が浮かんだ。今日のヒロインも世間的に見れば悪女になるのだろう。高級娼婦が純情な青年を恋に狂わせ、堅実な生活を棒に振らせてしまうのだから。だが、彼女は悪女ではないだろう。恋する心は悪ではない。ヴィオレッタもまたアルフレードを愛し、すべてを捨てて彼との愛を望んだのだ。
 しかし彼らには刹那的な日々はあっても、生活はなかった。郊外の家に越したにしても、召使を雇い、彼女の財産を食い潰して暮らす日々。それに気づかない生活力のない男、貴族の息子にしても父親から反対されていたのでは資金も自由にはならないだろう。なんにせよ、娼婦との明るい未来はないだろう。そこまでを考える事できない若さの情熱と、愚かさ。それが悲劇の舞台としての美しさに昇華する。そこまで思いを巡らせた時、脇に軽い衝撃が来た。「あっ」と小さな声と共に、ジェロームの靴に液体がかかったのだ。

 申し訳ありません、と落ち着いたアルトの声で、中身が半分こぼれたシャンパングラスを手にした若い女が謝罪する。グラスをジェロームの前のテーブルに置き、小さな銀色のバッグからシックな青い花柄のハンカチを出して自分の体をかがめようとした。
「いや、いいんです。自分で拭きます」
 ジェロームは自分のハンカチで酒のかかった靴先を拭った。彼女のせいとは言え、女をひざまづかせる形になる事は、さすがにパリジャンとして避けたかった。幸い大きな範囲でもなく、軽く拭いてしまえばダークブラウンの靴に目立ったシミはなかった。かかった液体は少なかったのか、靴下まで染みてもいない。華やかなシャンパンの香りは残るかもしれないが。
「本当にごめんなさい。豪華な内装を眺めていたら、ちゃんと前を見ていなくて。後できちんとクリーニングした方がいいですわ。費用は私が弁償いたします」

 赤い唇が開いて、緑の瞳に瞼を細めて謝罪する女は、歳の頃は20代後半だろうか。ヒールを履いているにしても、ファッションモデルのようにすらりと背の高い女だ。平均的な身長の彼より高かった。長袖だが腕の部分がレース素材の黒のドレス、浅い胸元からのぞく滑らかな肌の上に、光を反射する小さな色石を散りばめた彫金のネックレスを付けていた。栗色の髪はゆるいウェーブで肩からこぼれている。静かに彼の顔を見つめる女は、そんな服がよく似合う、華やかな美女だ。
 彼女は手にしていた小さな銀色のハンドバッグの中から、財布を出した。
「いえ、このくらい気にしないでください。人生にはこんな事もありますよ」
 相手が男ならクリーニング代を受け取ったかもしれないが、彼女に対して請求する気は起きなかった。
「そうですか、ありがとうございます」
 目線を落として微笑む女を大輪の薔薇のように感じた。ドレスの黒と相まって、それは黒い薔薇のようだ。綺麗な女もいるもんだな、と間近で映画スターを見たかのように感じた。
 気の利いた男なら連絡先でも聞いて、これを口実にデートに誘うかもしれないが、ジェロームは「では、これで」と言って自分の席に戻った。この場合、立場の強い彼が誘うのは紳士的ではないと思えたからだ。
 そもそも彼女は他に連れがいるに違いない。まばゆい光のガルニエで名も知らぬ美女とのアクシデント、思い出すにはその方が良かった。オペラ観劇のエピソード、まるでフィクションのようじゃないかと、彼はささやかな夢想を楽しむ。
 やがて第三幕の予鈴が館内に鳴り響き始めた。

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