店のガラス張りの外壁に沿って5つほどのテラス席が設けられている。外壁同様にテラスの手すりもガラス製で、眺望を楽しめるように造られている。日没にはまだ間があるが、段々と寒さが身に染みてくる時刻だ。この時期、外に出ようと思う物好きは少ないのか、あるいは時間が早いせいかもしれない、他に客はいなかった。16階の高さもあって、夏ならば吹く風に涼しさを感じるだろうが、今は冷え始めた空気と時おり吹く風が体を縮こまらせた。タバコを吸いたければテラスに出るしかないのだから、喫煙者は忍耐強いものだ。
晴れていれば夕日も美しいのだが、残念ながら今日はあいにくの曇天だ。セーヌ川沿いに建てられたこのホテル、眼下には西から東へ流れるセーヌ川が、中洲のサン=ルイ島で二股に分かれていく。それでも日没過ぎれば、川沿いの道の街灯は自動点灯し、さざめく水面はその光を反射するだろう。サン=ルイ島の古い建築物や対岸の街並み、奥に小さく見えるエッフェル塔もライトアップされる。そんな意味では、早過ぎる時間ではあった。
普段なら夜景を眺めながらの酒とタバコは、気分のいいもののはずなのだ。心に灯った危険信号が、ジェロームの気分を重くする。彼は上着の内ポケットから紙巻タバコとライターを出すと、1本くわえ、火を点けた。黒タバコ独特の香りと旨みを鼻腔に感じる。
「ジタンですか。なかなかきついのを吸ってますね」
少し寒そうなそぶりをしながら、マルク・ペルシエがテーブルに置かれたタバコの銘柄を口にした。ジタンをきつい、と言ったペルシエの言葉はつまり知っているのだろう。
「ペルシエさんは、元・喫煙者ですか?」
「ええ。私は3年前に禁煙しました。今でも時々、吸いたい気分にはなりますよ。ただ今や、吸える場所が限られてますから。面倒になってやめたんです」
確かに面倒ではある。健康に悪いというよりも、面倒だからとやめる人は、意外と多いのかもしれない。もちろん多額の税金でタバコの単価が年々高くなっているのも大きい。それでもジェロームは、タバコの与える安らぎはまだ捨てる気にはならなかった。相手側の逆に顔を向け、煙をふうっと吐き出して、まあ自分はニコチン中毒なんだろうとは思う。
ペルシエはおだやかな声でジェロームの知る限りの事を口にした。
「この時間にここにいると言う事は、今日の市庁舎前のイベントにいらしてましたか? リナシオンのブースでクラヴリー局長にお会いしましたが、私はその後は会場を後にしてしまいましたので」
「ええ。私もイベント広場で局長に会いました。ペルシエさんは局長とも顔見知りだったんですね」
その時、ウエイターが飲みかけのブラッディメアリーと、ホットワインのぽってりと丸いグラスをテーブルに置いた。ペルシエはワインをひと口含むと「ああ、あったまる」と、ワイングラスを両手で包んだ。
「そう、なぜ今、ノンアルコールなのかと申しますと、これから車を飛ばすつもりなんですよ。実は先ほどホテルのフロントにいたというのも、関係ありまして。ナントの郊外に兄が住んでいるのですが、大学時代の仲間の集まりでパリに来て今夜はこのホテルに宿泊予定だったのです」
「ここのホテルにですか」
「ええ。このホテルはまだ歴史は浅いですが眺めがいいだろうと思い、兄のために用意しました。ところが向こうで駅に向かう前に兄が交通事故に巻き込まれて、入院になりまして。まあ、その知らせが入ったのは少し前なんですが。私はご存知の通り、外に出てましたから」
「それは、お気の毒に。ご容態はいかがですか?」
「肋骨にヒビが入ったようですが、頭も軽く打ったようなので検査もあるらしくて入院です。兄はひとり暮らしなもので心配ですし、手続きや何か手伝える事もあるかと思って、これから向かうところです」
「そうですか、大変ですね」
兄への気づかいに、細やかな男なのだなとペルシエを好ましく思う。そもそも彼自身が嫌いなわけではない。たまたま仕事に関わって利害関係となってしまったために、友人づきあいが難しくなってしまった、その事に気が重かったのだ。
「⋯⋯それで、フロントで予約した部屋のキャンセル手続きをという時に、お見かけしたのがラギエさんです。もちろん当日ですからキャンセル料は宿泊代の100パーセントですよ。丸々無駄になってしまうくらいなら、いかがですか? この部屋を使いませんか?」
そう言いながら、ペルシエはジャケットの内ポケットから部屋のカードキーを取り出した。
「私はこれから兄の所へ向かいますし、明日は日曜だ、ちょっと贅沢な週末をホテルの部屋で迎えるのもオツなもんですよ。兄のために好きな花まで生けさせておいたんです。余ってしまった部屋なので、友人からのプレゼントとは言いがたいですが、リサイクルだと思って利用なさってはいかがですか?」
ペルシエからの意外すぎる申し出に、面食らった。
「それは⋯⋯たしかにリサイクルにはなりますが、ダメですよ。あなたとは友好な関係でいたいんですから。電話で伝えた通り、私の立場があります。それは受け取れないのです」
タバコをテーブルの灰皿で揉み消すと、軽く笑いながら断った。ふむ、とカードキーを懐に戻したペルシエは残念そうな顔をした。
「そうですか、それは仕方ありませんね。⋯⋯ところで、カウンターで親しげだったバーメイドはお気に入りですか?」
ふいにレティが話題に上がった。隙を突かれたように、ジェロームの心臓が大きく収縮する。
「なにを。顔を合わせれば話をする、ただのバーメイドです」
心の秘密、ガルニエの夜を他人に話す気は無かった。
「まあ、それもそうですね。パリ市の産業振興部長がバーメイドとどうとは、ありえませんよね。つまらない冗談で、失礼しました」
自分自身で彼女との住む世界が違うと思っていたのに、他人からそれを指摘されると、それはひどく気分の悪いものだった。ジェロームは彼女を蔑んでいたわけではない。単にこの国に延々と残る階級意識の中で、友人にしろ恋人にしろ、世界が違う者同士は出会う事なく、つきあいもない。その意識の上で違うと感じ、距離を覚えたのだ。
ペルシエの言葉は、おそらくそんな世間一般の感覚だろう。だがジェロームはそれを彼女への侮辱と感じた。それまで彼に対して抱いていた好意は、しぼんでいく。
ホットワインを飲み干したペルシエは「それでは、私は急ぎますので、また」と、去った。
相手が視界から消えると、タンブラーの赤い液体を飲み、再びタバコに火を付けた。眼下の川では観光客を乗せたナイトクルーズの船がサン=ルイ島を過ぎるとゆっくりと反転し、また戻っていく。吸い終わるまで時間を空けてからジェロームは室内に戻る。当然のようにペルシエはもういない。軽く息を吐くと、再びカウンター席に腰を下ろす。こんな気分の悪いまま、店を出たくない。
彼女は、ホテルの客なのかロシア語の年配夫婦の相手をしていた。国際観光都市のパリで関連職種に就けば、フランス語以外の語学力が求められる。英語はその最たる物だが、彼女はロシア語を話していた。高級ホテルのバー、従業員に語学の素養を求めるのは当然とも言えるが、彼女は客夫婦の気分を盛り上げるように会話を続けているように映った。
ジェロームはロシア語は格変化で挫折していたので、具体的な内容はわからなかったが、彼女と夫婦の間ではよどみなく会話が続いているのだから、きっと流暢なのだろう。夫婦との区切りがついた所で、彼女はジェロームの席に近寄って来た。
「お連れの方はお帰りになりました。お勘定を一緒に払おうとされましたが、最初に別でとムシューがおっしゃってましたので、そのむねお伝えして、あの方だけの分をご請求といたしました」
如才なく伝える彼女に、ほっとする。飲み代を払われてしまっては、それも賄賂にあたる。
「助かります。立場上、彼におごられるわけにはいかないので」
職務を果たした彼女は、笑みを作り、返事のように無言で軽くまばたきをした。
「ムシュー・ラギエ、とお呼びしてもよろしいですか? 私の事はレティで結構です」
先ほどのペルシエに呼びかけの際に名前を呼ばれたせいか、彼女はジェロームの姓を口にした。彼女がジェロームをその他大勢の客でなく、名を持った客として扱ってくれそうなそぶりに距離が縮まった気がした。そして名札があるとは言え、彼女から名乗ってくれたのを嬉しく感じている。
「ええ、もちろんかまいません。レティ」
彼女の名を口にする時に、心が震えた。レティは軽くうなづくと、柔らかな眼差しで尋ねてくる。
「ムシュー・ラギエ、何かお作りいたしますか?」
「そうですね。少し体が冷えたので、ベイリーズを」
甘口のクリーム系リキュールを注文した。小さめのリキュールグラスで供されたそれは、トロリとした液体で、体を温め、不愉快な出来事をしばし忘れた。
「ムシュー・ラギエ、またのお越しをお待ちしております」
帰り際のレティの声と笑み、無論それは職業上のものだろう。だが、優雅に唇の端を上げた彼女を美しいと思った。
最上階のバーから地上まで降りると、外は予報通りにパラパラと小雨が降り始めていた。
気候が良いなら散歩がてらに歩くが、この時期はバスを利用して帰る。しかし雨の中でバスを待つのも面倒に感じ、複合ビルの玄関でタクシーに乗り込んだ。シートに体を預けたジェロームはため息をつく。今夜はいい事と、悪い事が一度に訪れた。
軽くアルコールに触れた脳は、レティの姿と言葉を反芻した。だがそれにペルシエの不快なセリフも湧き上がり、台無しにする。そしてカードキーの事が思い出された。親族のためにホテルを予約する、それはあるかもしれない。だが自分がそのホテルバーに向かう時に、ちょうどフロントで見かけたなど、偶然はあるのだろうか? そして予約の部屋が無駄になったなどと、出来過ぎの気がする。
自分に心理的負担の無いようにホテルのカードキーを渡すたのめの方便に聞こえるのは、疑心すぎるだろうか。頭に浮かんだペルシエの顔が、好ましさと不快さでミックスした。ふいに「兄の好きな花」で、思考が止まる。話の中では少し異質な部分だ。たとえばそれが「姉の好きな花」なら、部屋を彩る花を生けさせるのは、相手を思いやる繊細な心遣いの弟だろう。ロマンティックな計らいに、姉は喜ぶに違いない。だが兄、だ。花を嫌いな男はあまりいないかとは思えるが、わざわざホテルの部屋にまで花を生けさせる、よほど園芸趣味の男ならともかく、あまり一般的とは考えにくかった。
そう考えていると、シートに預けていた身体が硬直した。「花」は「女」の意ではないのか? 兄の好きな「女」も部屋に用意させている、その暗喩だったのではと、いやな想像が働いた。商売女の待つ部屋のカードキー、今の彼と自分の関係をしてみれば、つまりは賄賂、だ。
そんな事があるだろうか? 大工事を共なう大型公共事業ならまだしも、今回のは単に工業団地への入居だ。入居後3年間の税金の軽減はあるにしても、それほどのうまみがある案件ではないだろう。確かにパリ中心地から近くアクセスも良い場所ではある。今のところ、総合的にはボーモン・バイオ社の方が優勢に思える。新興のリナシメント・エネルギーは、どうしてもそれを覆したいと思っているという事だろうか。
マルヌ・ノヴァ工業団地事業者選定会議の参加者は4人である。副市長アマンディーヌ・デュラン、都市計画局 地域開発部長ソフィ・フォンテーヌ、今日も顔を合わせた環境総局長のファブリス・クラヴリーと、経済開発局 産業振興部長の自分だ。デュラン副市長の方は各部局の意見でまとまれば、特に意を唱える事なく賛同するだろう。すでにペルシエと顔見知りのクラヴリー局長、そして不可解なルームキーを提案された自分、大いなる疑惑だ。
そう、まだ単純に疑惑なだけである。あの言葉に裏があるかどうかは、彼の勝手な想像に過ぎない。それでも、やはり心に引っかかった。そしてクラヴリー局長だ。局長にもながしかの利益を与えているのではないだろうか。不快な感覚が彼を襲う。しっかりした証拠が無ければ、不正を正す事はできない。週明けに今夜の事を局長に話してみるべきだろうか。心に生じた想像は、彼の胃を重くさせた。
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