イベント会場からそのまま来てもバーの開店時間には早かったが、ホテルは複合商業ビル内だ。時間を潰すには、ちょうど良かった。紳士服売り場でネクタイをながめ、スーツ用のポケットチーフを1枚買った。包んでもらわずに、四角く折りたたみ、左胸ポケットに挿した。鏡の前でポケットから新しい布地がのぞいたジャケット姿に、少し緊張する。
ホテルロビーには外に張り出したテラスがあり、喫煙できた。そこでタバコを吸いながら6時を5分過ぎるまで待って、エレベーターの上りボタンを押した。
いつも通りに店内に入ったが、土曜のためか、普段ジェロームが仕事帰りに寄っている金曜よりもボックス席がひとつふたつ、埋まっていた。彼は迷う事なくレティの立つカウンターの前に腰を下ろす。心臓が鼓動を速くしているのは自覚できた。彼女の顔が見たかった、あまりにも単純な理由が何であるのか、彼の中で答えはまだ出ない。
普段と違い、先週に続いて今日も店に来た自分の事をバーテンダーのジョセフがどんな目で見ているのかは少し気になる。バーマン特有の広く浅い、会話の引き出しの多い中年男のジョセフは、これまでのジェロームの主たる話し相手だったのだから。ちらりと彼の方へ目線をやると、ジョセフは「どうぞ、ごゆっくり」とでも言いたげに、軽く会釈を返した。心の内を見透かされたような気恥ずかしさはあったが、ジョセフに軽くうなずき、視線をレティに移して注文する。
「ブラッディメアリーを、先週と同じ薄いグラスでお願いします」
注文を聞いた彼女は含み笑いをし、ウィ、ムシューと答えた。
「お気に召したようでうれしいです」
カウンター内で手を動かしながら、彼に応える。
「ええ、あのグラスの素晴らしさに魅了されてしまったんです」
口にして、その言葉にようやく自分でも気づいた。魅了された、そうだ、グラスと同じく自分は彼女に魅了されてしまったのだ、と。
今までの恋人たちには尊敬と穏やかな愛情があった。好ましいパートナーとして存在し、それが恋だと思ってきた。だが彼の想いとは逆に、彼女たちは「私への愛情が感じられない」と去っていった。彼には、それが理解できずにいた。相手への思いやりや気遣いは忘れなかったと思うが、彼女たちはその愛情が通じていなかった。
オペラや映画や小説や、フィクションの中に登場するような熱情のような恋は、誰もが経験するものでもないだろう。おだやかな愛情でもいいはずだと。
あの当時、彼は心ときめくように、恋人を想っていただろうか。恋の喜びはあった。だが、それは今の感情に比べれば穏やかなものだった。去っていった女性たちが求めていたのは、熱情のような恋ではなかっただろうか。今初めて、彼女たちが口にした言葉の意味を理解できたように感じていた。
目の前に置かれたグラスを口に運ぶ。唇に吸い付くグラスに、ふと彼女の唇を想像してしまい、彼は羞恥と共に心の高ぶりを覚えた。
「こんなに夢のような感覚になれる、すばらしいです」
それはグラスとレティ、両方への賛辞であったが、もちろん彼女には通じないだろう。
その時、新たな客が来て、ボンソワーの声が店内に響いた。そして彼の背後から思わぬ声がする。
「ラギエさん、運良くお会いできましたね」
おそらく、今、一番聞きたくない声だった。だが無視するわけにもいかない。ジェロームは軽く体を後ろに回して、声の主を見た。
「ペルシエさん。イベント会場ではお目にかかれませんでしたが、ここで会えるとは⋯⋯」
自分の横に座りそうな男を避けるために、挨拶しながら席を立った。さすがにこの偶然はないだろう、とジェロームの中の危険信号が点滅した。レティといるこのカウンターで、ペルシエと並び座りたくはなかった。
「先ほど、ロビーでエレベーターホールへ行かれるを目にしたので、上に行くならもしやここではと思いまして。私はフロントカウンターにいたのですよ」
そう言うとペルシエはノンアルコールのホットワインを注文した。このままでは、同席せざるを得なくなる。
「ちょっとタバコを吸いたいので、外の席へ」
そうカウンター内に声をかけて、ジェロームはテラス席へと移動する。
「おや、タバコをお吸いになるんでしたか」
ペルシエは、不思議そうにジェロームの背中に声をかけて、彼の後を追った。
「ええ。ペルシエさんは吸わないようでしたので、今までは遠慮していました」
吸わない人間には他人の煙も不快に感じる。相手を嫌な気持ちにさせないよう、これまではペルシエの前ではタバコに手を付けないでいた。だが今日はもういい、そんな気持ちになっている。
テラス席へのガラスドアを開ける前に「ふたりの勘定は別々にしておいてください」とカウンター内に声をかけるのは忘れなかった。
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