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夜の爪あと (7) 緑の夜明け

2025/06/06

二次創作 - 夜の爪あと

 16時に近く、空気が冷たい。夜には冷えるだろうとコートを羽織ってきたのは正解だった。休みの土曜にジェロームはパリ市庁舎に向かっていた。正確には市庁舎前広場で開催されているイベントをのぞきに来たのだ。昨日、環境総局長のファブリス・クラヴリーから内線電話があった。
「例の工業団地の空き区画の件、申請したリナシメント・バイオエネルギーが明日の市庁舎前の市民イベントにも出展してるらしい。気が向いたら見に行くのもいいかもしれんな」
 そのイベントについては先日、ペルシエからも誘われていた。空き区画の企業選定には、ジェロームの属する都市計画局の他、統括として環境総局がある。クラヴリー局長の所にも誘いがあったのだろう。今回の件にはより正確なジャッジを、と考えていたジェロームは、申請企業の活動視察の一つとして行く事を選んだ。薄曇りで日差しは少なく、天気予報によれば夜は少雨らしい。

 パリ市庁舎前広場は12月半ばには市民のためにスケートリンクが設けられるほどの広さで、横100mを超え、幅は45mほどもある。そしてスケート以外でも様々なイベント開催に利用され、今日は『緑の夜明け』と称したエコロジー・イベントだ。
 仮設ステージでは地元のポップミュージシャンがライブ演奏し、有機栽培野菜や無農薬野菜の試食販売や肉もチーズもあり、それらを使用した料理の屋台も出ていた。焼き栗やビオ・クレープの香ばしい匂い、ラクレットサンドの溶けたチーズ、焼き上がったアップルタルトの甘酸っぱさ、そんな食欲を刺激する匂いがあちこちの屋台からただよっている。気の早いクリスマス・マーケットの華やいだ一画はピカピカと電飾を光らせ、通りがかる人々の足を止めさせていた。企業ブースでは環境友好的なテクノロジーの展示やデモンストレーションだ。道を歩く観光客も何事かと面白半分でのぞきに来ている。予想よりも多くの人が訪れていた。
 イベント主催は市民団体連合会とエコの関連企業だが、なかなか盛況じゃないかとジェロームは歩きを緩めて広場を眺めてみる。今日は後の予定を考えて、この時間にしたのだ。イベントは17時までのため、終わり間際の時刻に職場の人間と顔を合わす事はないだろうとも思っていた。しかし人混みを歩いているとヴィーガン・ワインのブースに、覚えのある横顔が目に入る。昨日、電話をかけてきた環境総局長のファブリス・クラヴリーである。
「おお、このワインは結構いけるな」
 クラヴリーは、試飲用の小さなワイングラスを眺めると、うん、とうなずいて試飲テーブルの奥にいる係員にグラスを返した。局長を目にしてしまった以上、声をかけないのも気まづい。目当てのブースを見つける前に向こうが自分に気づいて声をかけてくるかもしれない。開き直って、ジェロームは自分から声をかけた。
「こんばんは、クラヴリー局長」
「お? 君か。こんな時間に顔を合わせるとは思わなかったな」

 少し驚いた顔の局長は、あるいは自分と同じように時間をずらして来たのだろうかと思えた。ジェロームの方へ身体を向き直した上司が「ラギエも、どうだ?」と彼にワインを勧めてきた。係の若い女性は営業スマイルで「いかがですか?」と彼に赤ワインの入った小さなグラスを差し出そうとする。
「このグラス型のカップも、生分解性樹脂を使用しています」
 と、補足説明付きだ。透明プラスティックに見えたが、そうではないらしい。さすがはエコロジーイベントだが、彼は右手を軽く挙げてそれを断った。
「いえ、私は結構です。完全菜食主義ヴィーガンでもありませんしね。局長、アルコールは控えるんじゃなかったんですか?」
「ワインなくして、何の人生か。このくらいは飲んだ内に入らんよ。ヴィーガン・ワインなら、むしろ体にいいかもしれないぞ」
 どっしりとした豊満な体のクラブリー局長は、だいぶ前に迫り出している自分の腹を軽く叩いた。50代の局長は、その体重増加と高血圧で医師から減量を命じられているというのを耳にしていたが、こんな調子では成果は出そうも無い。局長は「私がもらおう」と女性がジェロームに差し出したグラスを受け取ると、再び飲んだ。

「けっこうな人出ですね。運営に行政がタッチしていないのに、なかなかの規模です」
 市民レベルでのイベントではあったが、複数の団体が立ち上げたそれとしては盛況である。人々の環境に対する意識の高さとも言える。2杯目の試飲ワインを飲み干した局長は、ジェロームに尋ねてきた。
「ところで、例の工業団地の空きの件、どうだね? 私も資料には目を通して、部下たちが確認や調査しているが、どっちの企業が優勢だ?」
「そうですね、財務状況などから考えれば、最初に申請したボーモン・バイオ社の方が優勢に思います。国内の企業ですし」
 ボーモン・バイオ社は、別の地域にあった工場が老朽化のため、移転先を探しての申請であった。
「だが、後のリナシメント・エネルギーだって、大元はイタリア企業だが、フランス法人だろう? バイオエネルギーの方が将来性があるんじゃないか?」
「選定会議まではまだ時間がありますよ」
 まあ、そうだなと局長は空のグラスを女性に返し、軽く礼をするとふたりの男はワインブースから離れた。

「君はリナシメントのブースは見てきたのか? 私はもうのぞいてきたぞ。子供向けにバイオ燃料のゴーカートがあるんだ。向こうの一番端だ。ペルシエもまだいるかもしれん。君も知り合いなんだってな」
 クラヴリーから意外な言葉が出てきた。
「局長はペルシエ氏をご存知なのですか?」
「ああ、去年、浄水施設改修工事の入札でな。やり手の男だ。今はリナシメントに関わってたんだな」
 ジェロームは淡々と口にした局長の顔を見ながら、昨日の局長からのイベントへの誘いはペルシエへの助力だったのだろうか、と思わずにいられなかった。
「これから行ってみます」
「私は、これで失礼するよ。この後、友人と約束があるんだ。それのついでの『視察』さ」
 軽く手を挙げると、ファブリス・クラヴリーは去っていった。ジェロームは局長の示した方へ足を進めたが、気持ちは複雑だった。
 ペルシエが工場申請で来た日の夜、彼に電話を入れていた。利害関係に関わるため、残念ながら今後は個人的な付き合いは控えたい、マチュー・ヴァロアのトークイベントについても参加できないと伝えた。電話の向こうから「それは残念です」とペルシエが応えた。もちろんそれはジェロームにしても同感だ。
 彼と本について語り合うのは楽しかった。新たな友人ができるかと思っていただけに、こんな電話をしなければならないのを申しわけなく思っていた。

「では企業選定が終われば、またお会いできますね」
 ペルシエの明るい声に、ええ、と答えたが、果たしてそれは可能だろうか。リナシメントを選べば直接の関係者になり、選ばなければ気まずい立場になる。どちらにしても素直に付き合えるような関係ではいられないように感じた。
 そんな微妙な感情が、ジェロームの足を重くする。会場の南の端、リナシメント・エネルギーのブースまで来ると、企業説明やバイオ燃料の仕組みなどが大型パネルに展示され、バイオ燃料のサンプルもあった。リナシメント・エネルギーは、食品廃棄物からバイオガスを生成している。循環型社会を目指しているようだ。
 しかしそんな企業理念や『バイオ燃料の作り方』といった図入りのパネル説明よりも、人々の、というか子供たちの興味はそれを利用したゴーカートの方にあった。小さいながらも楕円のコースが作られ、その中を子供たちが緩いスピードのカートを走らせて楽しんでいる。
 乗車の際に危ないからと子供のマフラーを外して手に取った母親は「あの子、寒くないのかしら」と、横にいる父親らしき男にあきれた声をかけていた。彼らにとっては薄寒い中でも、子供は面白い遊びには目がないのだ。雨天でなくて良かったというところだ。
 ブース係員を見渡したが、そこにペルシエの姿は見当たらず、ジェロームは少しほっとしていた。今、顔を合わせても、どうにもギクシャクした会話になってしまいそうだ。ひと通りに展示をながめるとその場を離れた。屋台で溶けたチーズをかけたじゃがいもと、野菜のポタージュを買い求めて小腹を満たし、会場を後にする。ヴィーガンワインではない酒が飲みたくて『銀の猫』へ足を向ける。今日はこのイベントに来る予定にしたので、帰りに寄ろうと思っていた。

 先週はガルニエの薔薇と『銀の猫』で客とバーメイドとして再会し、それは彼の勝手な夢想を裏切りはしたが、別にいい。注文相談がてらにカクテルのウンチク話をするバーテンダーのジョセフ同様に、会話の楽しい相手が増えただけだ、ジェロームはそう思いながら家路をたどった。
 だがアパルトマンに戻ってから、彼は少し変だった。バーメイドだったのか、バーメイドだったのか、と残念がりながらも、彼の脳はなぜかレティとの会話を、彼女の声を、彼女の姿を、指を、唇を、眼差しを、幾度も思い返していた。無意識の行為に気づくと、ジェロームは羞恥を覚えた。
 なにを思い返しているのか、10代の少年じゃあるまいし。いい歳をした大人が、何を浮かれているのか。なぜガルニエ宮で一瞬出会っただけのバーメイドを気にかけてしまうのか。
 たしかに彼女は美しかった。せっかくの出会いを自分で手放したと、多少の後悔をしたのはたしかだ。しかしそれは一時の気の迷いほどの感情にすぎない。ガルニエでの思い出の断片として残った、ほんのり甘い記憶だ。
 バーで彼女と再会したからといって、その感情が何かに似ているだなどと、そんなはずはない。美しい外見に惹かれて、内面も自分好みであろうと錯覚し思い込むような、ひと目惚れなどという軽薄な感情を、彼は自分の中で否定していた。
 しかしカウンターの向こうの彼女のエレガントな所作とたたずまいに、好意を持った事は事実でもあった。そんな己の脳が、彼女とのやりとりを思い起こさせる。彼は自分自身に困惑していた。
 だがそんな未消化な感情であるにしろ、やはり『銀の猫』に行きたい気持ちに変わりはなかったのだ。

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