女はアパルトマンの集合玄関のドアを閉めた所で、気がついた。閉められたドアのそばに黒猫が体を横たえて日向ぼっこのようである。普段、見かけない顔だ。とは言っても、彼女がここに越してレティシア・エモンと名乗り始めてから10日もたっていなかった。仕事が夜間なので昼間の周辺事情にはうとい。女は猫に詳しくはなく、何歳くらいなのかはわからなかった。子猫には見えないから成猫で、たたずまいから老いも感じさせないから、まだ若いのだろうとふんだ。首輪は無いが、つややかな毛並みの黒い猫は、まるっきりの野良には見えない。近所の誰かが餌付けでもしているのだろうか。
人の気配を感じたのか、猫は閉じていた目を開け、首を上げて、自分を見下ろす若い女を見つめた。細い虹彩の薄緑の瞳は、彼女を品定めでもしているようだ。
「あら」と彼女は体を屈め、腕を伸ばして猫の背を撫でようとしたが、黒猫は体を起こすと、軽やかに彼方へ走り去った。
「用心深いのね」そう声に出すと、女も立ち上がり、バス停へと急いだ。
女はの勤め先はセーヌ川岸にある複合施設の上層階を占めるホテルのバーだ。パリの最重要産業である観光業、数あるホテルの中でも、彼女の向かうアヴァンテージ・デ・ルミエールは星4つ、高級のカテゴリーに入ると言えるだろう。
バー『銀の猫』の開店は18時だが、17時には店に入り準備をする。場所柄、訪れるのは宿泊客が多くを占めるが、落ち着いた雰囲気を求める観光客やビジネス客もいる。パリは世界有数の観光地ではあるが、実のところは年中行われるビジネスイベントやカンファレンスで、ビジネスユースの客も多いのだ。当然ながら、それなりの社会的ステイタスを持つ人々である。わい雑な街のバーを避けて、あちこちのホテルバーを回るような趣味人もいるという事だ。
10月も半ばを過ぎ、空気はだいぶ冷えてきたが、日没にはまだ遠い。
世界に名の知られた花の街パリは、面積的には小さな街であった。優美で歴史的な建築物を保存してきたゆえに、道路渋滞は常態化し、住宅不足で居住区域は密集し、古くて狭いアパルトマンばかりで家賃は高い、美しくはあっても住みにくい街だ。これを解消すべく21世紀になり、グラン・パリ計画が策定された。21世紀も半ば近くの今、周辺の3つの県とその外郭にあるいくつかの自治体を統一して旧パリ市の面積8倍の都市となっている。交通網も郊外を結ぶ地下鉄環状線など新たに整備された。19世紀のオスマンのパリ大改造以上の結果である。
とはいえ旧パリ市は特別自治体であり、市政と県政を担っていたわけで、面積と人口が増えたところで役所としては仕事の幅は広がったが、大きな意味ではあまり変わらない。ジェローム・ラギエは、そんなパリ市の経済開発局の産業振興部長に就いていた。
その日、彼は少し疲れていた。今日は経済振興策のスタートアップ支援プロジェクトの予算配分額に、部下の算定ミスがあったのだ。修正のために関係各所へ次々と電話を入れ、書類を送り、修正案を急いでまとめていたからだ。それでも定時を1時間超える程度で仕事は終わらせ、週末を迎える事ができた。開放感と同時に、いささかの疲労を慰めるために、彼は馴染みのバーへ向かう。職場から歩いても15分ていどだ。
常連と言えるほどの頻度ではない。月に2回程度、金曜日の仕事帰りにホテルバーの『銀の猫』へ行く。それはパリ4区、セーヌ川に面して建てられた複合商業施設シテ・デ・ルミエール、オープンからまだ5年の16階建ての現代的なビルである。低層界はフードマーケットや商業テナント、託児所、フィットネスクラブがあり、中層階で賃貸オフィスが複数階続き、会議室や大小ホールの貸しスペースを過ぎ、10階から上が「アヴァンテージ・デ・ルミエール」の名のホテルだ。
2年ほど前に手伝いに入った環境問題の国際会議で大ホールが会場に使われ、現地解散のおりにホテルバーを利用してみると案外悪くなく、気に入っていた。場所的に職場から自宅アパルトマンまでの道程の途中に寄れる距離でもあり、ちょうど良かった。
仕事を忘れて1杯やりたいと思っているわけだから、ホテルバーなら知り合いに会う事はそうそうないだろうという理由もある。無論、街のバーに比べれば割高の料金ではあるが、それに見合うだけのサービスは受けられるし、気に入る店を見つけるためにあちこちと街の店を渡るのは億劫だと感じているからでもある。様々な店を紹介する雑誌はあるが、わざわざ購入してまで探してみたいとも思わなかった。さりとて自分の部屋でひとり酒を飲んでも、それは日常の隣すぎて、味気ない。
最上階のバーは眺望がすばらしく、セーヌの流れとサン=ルイ島も含め、パリの街並みを一望できる。テラス席でタバコを吸いながら酒を飲むのは、なかなか気分のいいものだ。
法律で公共の屋内は禁煙であるが、屋外ならそれが許されていた。バーテンダーに酒の種類を尋ね、様々なカクテルを作ってもらうのは楽しみでもある。酒を作る手作業は見ているだけでも面白い。密室ミステリー好きのバーテンダーもいて、たまにミステリーの話もする。同じフロアには他にレストランもあり、そちらの方が店舗面積は広そうだが、コース料理を食べたいとまでは思わない。そこまでの贅沢は望まなかった。
入り口の自動ドアが開くと、いつものように「ボンソワー」と店内のあちこちから声がする。金曜日の宵の口、客はさほど多くはなかった。ジェロームは店員に挨拶を返し、先に手洗いにと声をかけてトイレに入る。手を洗ったが、洗面台の壁の鏡に映った自分の顔は薄暗い照明のせいか、いささか顔色が悪く、疲れて見えた。
カウンター席に着くと、少し離れたカウンターの内側に見慣れない女が居た。今まで店で男のバーテンダーしか見た事が無かったので、新たに入った女性バーテンダーなんだろうと思う程度で、置かれたメニューを開く。今日はどの酒をベースにしたカクテルにするかとメニューをながめる彼の前に、ほっそりとした女の手が店の名と猫のイラストが入ったペーパーコースターを置き、赤い液体で満たされたタンブラーグラスがその上に乗った。
「まだ、頼んでませんよ」
グラスを置いた手の持ち主の顔を見上げると、女と目が合った。
「これは先日のお詫びで私からのサービスでございます。ブラッディ・メアリー、少しお疲れのように見受けられましたので、ウォッカは薄めにしておきました。ネーミングは恐ろしいですが、トマトジュースで胃に優しいので、いかがでしょうか? お気に召さなければ他の物をお作りいたします」
バーメイドはかすかに笑みを浮かべていたが、今日、初めて見た女に覚えがあるはずは無かった。だが、その声に聞き覚えがあるような気はする。
「ええと?」記憶にないが、前に来た時にもバーメイドはいただろうか。何かあっただろうかと思い返そうとしてみるが、わからない。
「2日前、オペラ・ガルニエで、私が失礼してシャンパンをあなたの靴にこぼしてしまいました⋯⋯」
女の言葉に、彼は目を見張った。そうか、店の事じゃなくて外の話か。カウンターの向こうに立つ彼女は、ガルニエの薔薇とはずいぶん印象が変わっていた。あの日、肩からこぼれていた髪は、今は地味に首の後ろに丸くまとめられている。バーメイドとして白シャツに黒のベストとお決まりの服装で、きっと下は黒いスラックスだろう。控えめな化粧と、あの日は付け爪だったのか、今は短い爪で色もナチュラルだ。穏やかな眼差しはその職務に相応しく、店の一部に溶け込んでいた。
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