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夜の爪あと (6) 訪問者

2025/06/03

二次創作 - 夜の爪あと

 ジェローム・ラギエの職場であるパリ市庁舎は、ネオ・ルネサンス様式の豪華な館で、観光ツアーに組み込まれるような場所である。19世紀末に再建されたままの入り口階段や廊下や図書室や市長室など、細工や彫刻や絵画、それらを照らすシャンデリア、びっしりと描かれた天井画。しかしそれらは
表向きの部分にすぎない。一般職員のオフィスは、天井は高いにしても現代的なオフィス設備の機能的な部屋にリフォームされている。
 荘厳な外観を目にしながら建物に入り、歴史的で装飾豊かな廊下や階段を通り抜けて、現代のオフィスにたどり着く。それはそれでパリ的でもあるかもしれない。
 仕事にひと息入れようと、ジェロームが職場の壁際に置かれたコーヒーマシンで紙コップへ黒い液体を注いでいる時だった。背中越しに、出入り口のドアが開く音が聞こえた。受け付けカウンターで用件を伝える中年男の声が続く。
「こんにちは。マルヌ・ノヴァの工場申請でうかがいました」

 パリ北東部にあるマルヌ・ノヴァ、エコロジー関連企業のみで形成されている工業団地であり、パリ市が造成した場所だ。現在空き区画が1つある。以前は自然分解するプラスチックの開発・製造工場があったが、製造コスト高と技術的な限界から採算割れとなり、資金繰りが悪化して撤退していた。
 6月にその区画への工場入居募集を告知して、バカンス明けの9月から申請受け付け中である。今のところ、申し込みはバイオ関連試薬製造の1社だった。他に2社が申請用書類を取りに来ていたが、10月半ばを過ぎても何の連絡も無かった。このままなら最初の1社で決まりかと思っていたのだが、締切ギリギリで滑り込んできたか、とジェロームは注ぎ終わった紙コップを手に、受け付けの方に目をやった。
 カウンターの向こうにはスーツ姿の男がふたりがいた。そのひとりの顔に彼は驚き、目を見開いた。それはマルク・ペルシエであったのだ。受け付け窓口の職員から業務を引き継いだ産業振興課長のランブランが、受け取った申請書類を確認していた。ペルシエと、左横にいる50代ほどの男は、カウンターごしにランブランがチェックする書類に目を落としていて、ジェロームに気づいてはいない。

 邪魔をしては悪いなと思い、ジェロームはその場に立ったままコーヒーに口を付け、作業が終わるのを待った。少しして確認が終わったのか、ランブラン課長が用紙をペルシエの隣の男に手渡した。
「こちらが受付済み証明です。申請は受理されましたので、最終プレゼンの案内は後日、お送りします」
 ジェロームはまだ中身の残っている紙コップをコーヒーマシーンの横に置くと、受け付けカウンターに近づいた。すでに顔を上げていたカウンターの男ふたりも、近づいてくる彼に気がついた。ペルシエも驚いた顔をし、次に口元が緩んだ。
「これは⋯⋯世間は狭いですね。ここでラギエさんに出会うとは」
 横の男は「おや、お知り合いの方ですか」とペルシエとジェロームの顔を変わるがる眺め、笑みを作った。自分のデスクに戻ろうとしていたランブランも「部長、お知り合いでしたか」とジェロームを見た。
「ええ、ちょっとね。どうぞ、仕事を続けてください」
 ジェロームの言葉に、では、とランブランは受け取った書類を持ってデスクに戻った。
「これはこれは、部長さんでしたか」
 隣の男は目を細めて、上着の内ポケットから名刺入れを取り出した。

 まだ年若いジェロームが産業振興部長であるのは、この国の社会システムの結果だ。フランスは良くも悪くも階級社会である。高校卒業時が分岐点となり、その後に選択した道が人生を左右する。6割程度が大学進学、あるいはその2%程度に相当するエリート養成機関と呼ばれるグランゼコール卒業では就職後の給与が倍にも違ったりする。
 グランゼコールを卒業したジェロームは外務省に職を得たが、ODA関連部門に配属の後は激務と精神的ストレスのために不眠症になり体調を崩した。上司に退職を申し出たところ、パリ市庁舎への出向になったのは4年前だ。当初は副部長であったが今は昇進して部長になった。おそらく来年には帰任になりそうな気はするが、できれば戻らず転籍したいと考えている。
「リナシメント・バイオエネルギー事業開発部長のパトリス・ドゥラルーです。お知り合いでしたら今更の紹介になりますが、彼は今回のプロジェクトに協力いただいている戦略コンサルタントのペルシエです。彼には来月の最終プレゼンにも協力してもらう予定です」
 ドゥラルーは名刺を差し出しながら、横にいるペルシエを紹介した。

「ではこれは仕事用、という事で。ぜひリナシメント・バイオエネルギーの工場新設をお願いいたします」
 笑顔でペルシエが名刺を出す。ジェロームも同様に自分の名刺を渡した。
「産業振興部長のジェローム・ラギエです。こんな偶然もあるんですね」
 ペルシエと違い、ジェロームはパリ市の公務員とだけ伝えて、名刺を出した事は無かった。フリーランスのペルシエと違い、雇われ人の身だ。わざわざ私的な関係の彼に言う必要を感じなかったからである。
 そしてペルシエもまた、自身の仕事について話をする事も無く、ふたりの間では2冊の本の感想や考察を楽しんだだけなのだ。まさか職場で、彼と顔を合わせるとは思ってもみなかった。顔には出さなかったが、プライベートが仕事と混ざってしまったのは少しばかり残念な形ではある。だがペルシエにはそんな感覚はないのか、鞄から出した4色刷りのリーフレットをカウンターの上に置いて広げ、指し示しながら、にこやかに誘いの言葉を口にした。
「今度の土曜日、こちらの市庁舎前広場で行われる市民イベント、リナシメントも企業ブースを出展しますので、ご都合つけばぜひおいでください」
 ジェロームは「ええ、都合がつけば」と答えたのみだった。

 せっかく新たな友人を得たかと思えたマルク・ペルシエであったが、工業団地空き区画への申請に関わっているとなれば、今後の付き合い方を考えなければいけない。万が一にも不正に通じるような事があってはならないのだ。
 『暗い森の道』のサイン本、あれは工場申請よりも前である。ジェローム自身が所望した物ではないし、本の代金は支払っている。あくまでも友人からのサプライズ・プレゼント、問題は無いはずだ。マチュー・ヴァロアのトークイベントの方は断ると決めた。
 最終プレゼンの後の事業者選定会議で入居企業が決まる。そしてジェロームはその参加者のひとりであった。空きがひとつの椅子取りゲームでは2企業の内、どちらかが落とされる。無論、私情に関係なく選定するつもりであるが、友人が関わっているがゆえに無意識に避けようとしてしまうのではないかと思えた。それはそれで私情が逆に作用してしまう。
 申請者が去ったカウンターを背にし、壁際のコーヒーマシーンの横に置いた紙コップの冷めた液体を飲み干すと、小さくため息が出た。じきにペルシエたちの申請書類は彼の元に回ってくる。今後の調査とプレゼンを冷静に受け止め、正しい結果を出さねばならぬと心に刻んだ。

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