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夜の爪あと (12) 黒猫

2025/06/24

二次創作 - 夜の爪あと

「ああ、きみはなんてセクシーで美しいんだ」
 甘い声をかけながら、アルマン・ブーシェは道端にかがみ込んだ。声をかけられた黒猫は、後ろ脚を体の下に仕舞い込み、前脚は突き出した形で歩道の隅にスフィンクスのように腹ばいになっている。だいぶ彼に慣れてきたのか、猫は目を細めてアルマンの手の平が自分の背を撫でる事を許していた。彼の背後から近づいて来た靴音が、猫への「口説き文句」にやや速度を落とした事に気づくと、アルマンは靴音の方に体を向けた。脚を留め、くすりと笑っている若い女が視界に入る。彼の猫へのアプローチを笑ったのだろう。アルマンは照れる事も無く、微笑んでみせた。
「ボンジュー、あなたもそう思いませんか?」
 そう挨拶をされた女は無視するわけにもいかず、ボンジューと軽く笑顔で返し、通り過ぎようとする。黒猫は撫でる手の平が止まったためか、立ち上がろうとした。彼はあわてて首から下げたカメラを手にして、再び猫を口説き始める。
「シピ、そのまま、きれいな姿のままでね」
 言葉をかけながら、猫の写真を撮り始めた。己に向けられたレンズを気にもせず、猫は立ち上がり、アルマンを見つめると小さく鳴いて背を向け、建物の隙間に去ってしまった。
 たいして枚数は撮れなかったなと思った所で、先ほどの女が立ち止まったまま自分を見ているのに気がついた。シンプルなパンツスタイルで左手に下げた買い物袋は、この近所のパン屋のものだ。彼女が興味深そうに少し口の端を上げて静かに尋ねてくる。
「あなたの猫? あなたは専属カメラマンなの?」
 ゆったりとしたアルトの声の響きに彼の本能が熱くゾクリとした。同時にマズイなと、若干のためらいが生じた。つまりは、大変に彼好みの声であったわけだ。
「いや。飼い猫じゃあないよ。ボクの部屋の前の住人は友達で、そいつがこの子をシピと呼んで餌付けしてた。部屋といっても地上階の、元は管理人室のボロい部屋。ま、安いからいいけどね」
 大昔から続いていた集合住宅に管理人が居住する形はコストがかかるため、今や数少ない。清掃やゴミ出しは外部に委託するアパルトマンの方がだんぜん多い。このため、たいていは地上階にあった管理人室は物置にしたり、あるいは安価な家賃で貸し出されていたりする。防犯のために道に面した窓は閉め切りになるし、間取りも狭いが、賃料が安いために借りる者もいる。
 アルマンは屈んだ姿勢のまま答えると、カメラレンズに蓋をしながら立ち上がった。見上げていた彼女の姿が彼の目前に来た。ああ、端正な顔立ちをしているなと、声と話し方によく合う美女を見つめた。おそらく彼よりいくつか年下くらいだろう。
「シピに久しぶりに会えたんで、ちょっと口説いてみたところ。ボクはフリーのライターだけど、猫の、と言うか街の写真を撮るのも好きなのさ」
 彼女が立ち止まったのは猫の撮影を始めたからだろうかと思い、口を開きかけたが、その前に再び質問が来た。
わがまま娘シピだからメスね。猫を口説いてるのが変だったわ。夕方なのに酔っ払いかと思ったけど、そうではなさそうだし」
 アルマンはまだ30歳前だ。あご髭を少し生やしてはいるが、短髪の黒髪でこざっぱりとした印象はある。取材先がどこであれ、胡散臭く見えないようにラフな服装でも清潔感を心がけている。彼女から見て、酔っ払いに見えなかったのは幸いだ。
「名前を呼んでいたから飼い猫かと思ったわ。⋯⋯ライターなのに写真も撮るの?」
 この女からは次々と質問が来る。なんだか面白かった。
「フリーライターと言っても底辺だからね。写真撮って、それに合わせた記事を書いてる。目標はジャーナリストだけど、まあ当面は何でもね」
 たとえば観光客向けのフリーペーパー、夜の歓楽街の風俗店の紹介記事とは口に出さないでおいた。今度は自分の質問の番だ。
「あなたは写真に興味でも? それともシピに?」
「猫は、きれいでしなやかで好きよ。飼った事はないけど。口説きながら猫の写真を撮ってるから、なんだかおかしかったの。面白そうな仕事ね。じゃあ、さよなら」
 軽く右手を挙げて女は立ち去ろうとする。アルマンは焦った。口説きたいのは猫だけじゃない。
「待って、シピを知ってるの?」
 振り向いた女の横顔は、少し彼を見つめたが「この辺で、何度か見かけてるだけよ。前に見た時には首輪はなかったけど」と答えて、再び手を軽く振った。このまま終わるわけにはいかない彼は、彼女に追いつき、食い下がってみる。
「この首輪は、ボクから彼女へのプレゼントさ。口説きたい相手には贈り物もしたいじゃない。ところであなたの住まいはこの辺? ボクはひとつ向こうの通りに住んでるんだ」
「さあ、どうかしら」
 気のないセリフが返ってきた。予想通り、ガードは固そうだ。さりとて、このまま後を付けて行ったらマイナスイメージしか残らないだろう。彼は妥協点を探った。
「今度、猫じゃ無くてきみを口説くって、どうかな。ボクはアルマン・ブーシェ。気が向いたら食事でもどう?」
 ジャケットの内ポケットから出した名刺を彼女の前に差し出した。彼女は名刺に軽く目をやると、それを受け取り、コートのポケットに入れた。
「また会えるのを期待してるよ」
 精一杯の心残りと共に、別れの挨拶に軽く手を挙げた。彼女は不快な顔はせず、無言とかすかな笑みで返した。立ち去った女は名前も教えてはくれなかったが、自分の名刺を拒否しなかった。感触的には悪くない、次の機会を待とうかと思う。

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