ジタン・ブルーと呼ばれる深い青のパッケージは、紫煙の中で踊るジプシー女のシルエットが特徴的だ。ただ箱の下半分は健康に関する警告文で占められている。
『タバコの使用は平均寿命を短縮します。タバコの使用は肺がんの主な原因です。タバコの使用は心臓病の重要な原因です。妊娠中のタバコの使用は赤ちゃんに害を及ぼす可能性があります』
「すてきなデザインなのに、無粋な文章。でも仕方ないのかしら」
彼女が吸っているのは、ジタンよりずっと軽い、キャメル・シルバーだ。ジブシーの踊り子と、砂漠のラクダ、さすらうような類似イメージを感じたが、それはこじつけようと思いたい彼の願望かもしれなかった。
コーラの缶で喉を潤すと、職場の屋外喫煙所で知り合った公衆衛生局員から耳にした話題を出してみる。
「でも、これでもマシな方ですよ。今後は中立パッケージというのが計画されているようです」
彼女の方はアイスティーの缶を持ち上げながら、不思議そうな顔で尋ねてくる。
「中立パッケージ?」
「ええ、すべての銘柄を同一パッケージにするんです。商品独自のロゴもやめて、みんな同じ、そっけない文字で銘柄が表示されるだけ。あとは警告文とタバコ由来の病気の、目にしたくないような写真が入るらしいです。健康対策のために。カッコつけで若者がタバコに手を出さなくなるように。スモーカーが禁煙する気になるように」
レティは、眉をひそめた。
「ひどいわね。じゃあ、このジタンのデザインもなくなってしまうのね。でもそれ、本当に? 聞いた事、ありませんわ」
「ええ、まだ噂ですけど。来年か、さ来年には法案提出でしょう」
タバコの灰を灰皿に落として、彼も煙を吸い込んだ。
「どこで、そんな噂? ジェロームはタバコ会社の人なの?」
いえ、と笑って小声で答えた。
「その⋯⋯役所で聞いた噂です。私は小役人なんです。だから、この話はまだナイショに」
そういえば彼女に自分の職業を知らせてなかった。彼女から見れば、自分は店に来る客で、たまたま名前を知っているだけの人物だ。定期的に店に来ている事くらいは他のスタッフから聞いているかもしれないが、それ以外は何も知らない人物だ。小役人、とだけでも伝えておけば少しは身元保証的なものはあるかも知れない。
「自分のことを小役人だなんて。チーフバーテンダーから聞きましたわ。定期的にいらっしゃるお客様だって。それならエリートでしょう? 法案だなんて言うのだから。いいえ、お答えいただかなくても結構ですわ。お客様にくつろいでいただくのが店の目的ですから」
逆にそう言われてしまうと、きちんと名乗らなくてはという気になった。彼女から「客」ではない対象にしてもらわなくてはならない。彼はジャケットの内側から名刺入れを取り出し、名刺の余白に自宅アパルトマンの電話番号を書き足した。ちょうど仕事帰りで名刺入れを携帯していたのが幸いだ。
「その、今日見た映画がとても良かったので、もしまた面白そうな映画なら、ご一緒したいのです」
名刺をレティに手渡して、映画を口実にしてみた。断られたら、その時はその時で、まめに店に通って距離を縮める気でいた。彼女は両手で受け取った名刺の文字を眺めると、少し思案気味に応えた。
「今日の映画は30年も経っていない、比較的新しい方です。私はもっと古い20世紀の映画、50年前とか、もっと古いのも観ますけど、それでよろしいの?」
物好きな男の提案に不思議そうに首を軽く傾げた。
「オペラなんて、もっと、ずっとずっと古いですよ」
「まあ。それもそうですわね」
ふたりで、くすくすと笑い合う。レティは彼の名刺の肩書きへの感想をもらした。
「ジェローム、堅そうで難しそうな、お仕事。だからコメディで気を晴らしたかったのかしら? もしかして、いつぞやのノン・アルコールの男性は気に入らない仕事関係者?」
エコイベントの夜の話題が出た。確かに彼女が知っている彼は限定されるのだから、それは仕方無い。
「まあ、仕事に関わりはありますが」
彼は少し渋い顔をしてみせた。すると、彼女は軽く視線を落とた。
「あまり⋯⋯他のお客さまの事をお話するのはどうかとは思うのですけれど⋯⋯ノンアルコールの男性、あの翌日もいらしたんですの」
翌日にもペルシエが『銀の猫』に来た。自分のテリトリーであるバーに。ジェロームは心がざわついた。前日夜に兄の所へ行って、翌日には戻って来たという事か。
「ひとりで? それとも誰かと連れ立って?」
小さな動揺を隠して、彼女の目を見る。
「おひとりです。⋯⋯それでカウンターでカクテルをお作りしましたが。何か、私とあなたの事をあれこれとお尋ねになって⋯⋯。もちろん私は、まだ新米ですし、あくまでもお客様としてのムシュー・ラギエとは顔合わせをしたばかりで何もお話できるような事は、と申し上げました。そんな事がありましたので、あなたにもお伝えしておこうかと。こんなことは店ではお話しできませんし」
「ガルニエでの事は⋯⋯?」
「いいえ。それは話しておりません。個人的な事ですもの」
ペルシエは、何を探りに『銀の猫』へ来たのか。そう、探りに。ジェロームにはそうとしか感じられなかった。あの夜の彼からの奇妙な提案と、レティを侮蔑したかのような不快な言葉が思い返され、腹立たしさを覚えた。
「彼は⋯⋯マルク・ペルシエは、危険な人物かもしれないのです。いえ、まだ確証はないのですが。その⋯⋯くわしくは言えませんが、彼には近づかない方がいいです。役人だと、外部からの怪しい誘い話があったりするものなんです。ペルシエの失礼な質問で不快に思われたのなら、彼に代わっておわびします」
「まぁ。私はお客様として接するだけですもの。ご心配には及びませんわ。でもなんだか難しそうなお話。コメディで笑えて、よろしかったわ」
もしや彼女はペルシエの事が気にかかっていて、それがあったからこそ本屋で見かけた自分に声をかけたのかもしれない。その話をするかしまいか考えあぐねて、今、初めて口にした。ジェロームにはそんな想像ができてしまった。彼女の声かけが好意からではなく、心配事を前提としていたのなら、それに気分を舞い上げてしまった自分がわびしくなった。
彼が浮かない顔をしたせいか、彼女はそこで話題を変えた。
「私こそ、この前はつまれない話をお聞かせしてしまい、せっかくのくつろぎの時間を台無しにしてしまったのではと反省しました。でも今日はこうして一緒に映画を観て、笑い合えたのでほっとしてます」
つまらない話なんかではない、あなたの事ならば何でも知りたいのだ、とは口にできずに「わたしも笑えて楽しかったです」とだけ、答えた。
彼女はアイスティーを一口飲んで、缶をテーブルに置いた。缶の飲み口にうっすらと付いた口紅に、彼の目は吸い付けられる。前に女性の唇に触れたのは何年前だったかと考えたりして、そんな自分が恥ずかしくなって、うつむいた。
「あの時はすみません、急にプライベートな事を尋ねたりして。あなたもオペラ好きなのではないかと、ちょっと気持ちが高揚してしまったもので」
「いいえ、私もガルニエの事がありましたから、少し馴れ馴れしかったかもしれません。ごめんなさい」
顔を上げた彼の目が、彼女と合った。包み込むように笑う彼女の緑の瞳に引き込まれそうになって、彼は視線をそらした。
「気にしないでください。あの『ラ・トラヴィアータ』は、良かったですから。ヴィオレッタ役のエリザベッタ・ロッシが素晴らしかった。もちろんジュリアーノ・モレッティのアルフレードも、ですが」
「ええ。でもわたし的にはテノールのアルフレードより、バリトンのジョルジョ(アルフレードの父役)が好きなんです。あの晩はとてもすてきでした」
いたずらそうな目で彼女はジェロームを見つめると、バッグから手帳を取り出した。付属のペンで書き記し、ページを切ると彼に渡した。
「私のフルネームはレティシア・エモンです。でも、お店にはお客さまとして、おいでください。その時はバーメイドとして接客します」
彼女の名前と電話番号が書かれた紙片を彼は礼を言って受け取り、二つ折りにすると、大切にジャケットの内ポケットにしまった。
ケバブ店を出るとそこでふたりは別れた。映画を共にし、食事もした。ジェロームにとってはこれで十分だった。
ペルシエの件は疑惑が大きくなるばかりだったが、今は何も動けない。宝物を入れた内ポケットにジャケットの上からそっと右手を置いた。
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