若い男が懐から取り出した懐中時計を開くと、11時56分だった。上りエレベーターが16階で止まる。『銀の猫』のラストオーダーは0時半だから、ほどいい頃合いだろうと時計を戻した。男の名はアドルフ・フォン・ルードビッヒ、適度に疲れた体に寝酒を求めていた。
店の自動ドアが開き、歩き進むと、正面奥のカウンターから「ボンソワー、ムシュー・ルードビッヒ」とバーマンが声をかけてきた。彼がこの店に来るようになって1年ほどか。
「ムシュー」と付けられて呼ばれはするが、彼はまだ20代前半の若者である。バーマンとの会話を楽しむような飲み方はしないし、自分から名乗った事はないが、支払いは逗留するこのホテルの部屋付けにしているため、明細に入れるサインでバーマンは彼の名前を覚えている。若くてもスーツの仕立ての良さや、立ち居振る舞い、定期的にホテルを利用している事を考えれば、青年実業家とでも思われているのだろう。
彼の表の顔はパリからほど近いアンギャン=レ=バンにあるカジノのコンシェルジュではあったが、裏の顔は世界的規模を持つ組織、犯罪帝国ネクライムの一員であった。
バーマンから少し離れた所からもボンソワーと、女の声がした。声の方に目をやると、バーメイドである。月に1度か2度来ているが、見覚えのない女だ。
「新しいバーメイド?」バーマンのジョセフに尋ねると「はい、まだ見習いですがスジがいいです」と返ってきた。
ジョセフの返事に続いて、カウンターの中の女が近づいてくる。
「レティと申します。よろしくお願いいたします」
場慣れした薄い笑顔と、落ち着いた雰囲気で名乗った。
「美味い酒が作れるなら、男でも女でもかまわないさ」
バーマンから少し離れた所からもボンソワーと、女の声がした。声の方に目をやると、バーメイドである。月に1度か2度来ているが、見覚えのない女だ。
「新しいバーメイド?」バーマンのジョセフに尋ねると「はい、まだ見習いですがスジがいいです」と返ってきた。
ジョセフの返事に続いて、カウンターの中の女が近づいてくる。
「レティと申します。よろしくお願いいたします」
場慣れした薄い笑顔と、落ち着いた雰囲気で名乗った。
「美味い酒が作れるなら、男でも女でもかまわないさ」
彼は女がバーマンである事への異議など無かった。職業柄、地味にしているがきれいな女だ。だがきれいな女など、このパリにはいくらでもいる。先ほど彼が別のホテルの部屋に残してきた女も美女には違いなかった。女と朝まで過ごす気はなかったし、あとは気に入った酒を飲んでひとりで休みたいだけだ。
今夜は高級時計メーカーの新作発表のパーティーであった。表の顔としてはVIP顧客を店に誘導するための参加だが、実のところは参加客とのダイアモンド密売の商談であった。
そんなパーティーに行けば、モデルや女優くずれの女が寄ってくる。彼は背が高く、色白で鋭い目つきは冷たさを感じるが、整った顔の美男であるし、甘い声と物腰に色気があった。そして富も持ち合わせているのだろうと想像できる様でもあるからだ。
バーメイドは、軽く目を合わせて営業スマイルを浮かべると会釈をし、元いた位置に戻って行った。ほんの少しの間だけ彼の姿を写した彼女の緑色の瞳は、ただ、目の前の客を認知しただけだった。寄ってくる女たちの、媚と期待を含んだ目とは違っていた。
ルードビッヒは異性からの秋波は珍しくもなく、それは相手が接客業の従業員であっても同じ事であった。時に面倒に感じる女たちの視線だが、彼はそれを利用する事はあるにしても、それ自体を善しとも悪しとも思わなかった。容姿は自分の属性のひとつでしかなく、才能でもなんでもないからだ。ゆえに数ある客のひとりへの視線しかよこさず職務に戻った若い女は、気遣いなく酒を楽しむ場に適任である。
「ではドライ・マティーニと、そのあとはヘネシーパラディをストレートで頼む。見習いくんに頼もうか」
ルードビッヒはレティの方に顔を向け軽く手を挙げて注文する。
「見習いでよろしいので?」とジョセフは少し心配そうな顔をしたが、ルードビッヒは「面白いだろ」と、めずらしく薄い笑みを浮かべた。今日の取引が上手くいった機嫌の良さが、いたずら心を生じさせた。
この時間、店の客はだいぶ減ってきている。彼の好みの席は当然のように空いていた。その席は、外を見渡せる窓際の一角だ。薄暗いバーの大きなガラス窓の外にはパリの夜が広がっている。川下のサン=ルイ島の奥は視界に入らないが、そのまた奥の中洲の島はパリ発祥の地とも言われるシテ島だ。シテ島にはライトアップされたノートルダム寺院がそびえ、その向こうにはパリ警視庁。裏の顔を持つ彼は、そんな風景を見下ろしながら酒を飲む事に快楽を感じる程度には若かった。
ウエイターがカクテルグラスを運んできた。見習いにマティーニは少し意地悪だったかもしれない。あのバーメイドのお手並みはと口にしたが、思ったほど悪くはなかった。ジョセフに比べれば落ちはするが、見習いという程には、及第点だ。あの女がどんな顔をしてマティーニを作っていたのか、ステアに必死になっていたのか、顔色変えずに作っていたのか、少しその様子をながめてみたかったような気がした。
ウエイターがカクテルグラスを運んできた。見習いにマティーニは少し意地悪だったかもしれない。あのバーメイドのお手並みはと口にしたが、思ったほど悪くはなかった。ジョセフに比べれば落ちはするが、見習いという程には、及第点だ。あの女がどんな顔をしてマティーニを作っていたのか、ステアに必死になっていたのか、顔色変えずに作っていたのか、少しその様子をながめてみたかったような気がした。
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