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夜の爪あと (14) 追憶のオペラ

2025/07/01

二次創作 - 夜の爪あと

 ジェロームはルイ・モーリスに調査を依頼したが、いつまでと期限を切っているわけではない。漠然と1〜2週間ではないかと思っていた。今のところ、結果の知らせを待つしかない。それまでは通常業務の中で、仕事をこなすだけだ。そして今日も『銀の猫』に足を向ける。明日は11月1日の諸聖人の日で祝日ゆえ、木曜日でも脚を運ぶ。前回はエコロジーイベントがあったから土曜でも行ったが、実の所、仕事帰りに寄る形を崩したくはなかった。
 週末に職場から家に帰る途中でのおだやかな息抜き、そんなひと時なのだと思ってきた。レティを知ったからといって、その形を崩すのは恥ずかしかった。それは主に他者の眼を意識してのことではあるが、自分にそんな感情があったということすら奇妙に感じていた。
「いらっしゃいませ」
 カウンターの席についたジェロームにレティが挨拶した。彼女の仕事休みがいつかもわからないが、客の多い週末なら店にいるだろうと予想していた。彼の想像は的中し、今夜も彼女の微笑みを受けた。もうこれで3週連続で店に来ている。他のバースタッフから見れば、以前の来店ペースに比べて明らかに多い事はとっくに気づいているだろが、誰も野暮な事は口にしないし、態度にも表さない。

 恒例のようにジェロームはブラッディ・メアリーを注文し、薄いグラスがカウンターテーブルに置かれる。彼は一口飲んで、あせって早口にならないよう気をつけながら、ありふれた話題のように口にした。
「そういえば来年1月に『カルメン』がありますね。オペラ座ではなく、バスティーユの方ですが。私は行こうかと思っているのですが、あなたは行かれますか?」
 オペラ屈指の人気のカルメンだ。彼女も行くつもりではと期待していた。
「まあ、すてきですわね。でも私にその予定はありませんの」
 カウンターの中でグラスを磨きながら、彼女は笑みで答えた。
「オペラは、本当は滅多に行きません。普段はテレビ放送を観るくらいです。この前のは、ちょっと冒険してみました。『ラ・トラヴィアータ』は10代の頃に初めて観劇した演目でしたので」
 これはさりげなく彼の次の言葉を、つまりは「よければ一緒に行きませんか」という言葉を予想しての牽制なのだろうかと男に思わせた。
「⋯⋯そうですか。いえ、私は周囲にオペラに興味を示す友人がいないもので。観劇後に感想を言い合える人がいれば、楽しいかと思ったまでで。すみません」
 計画としては観劇後の食事まで考えていたのは、もちろんであった。彼の淡い期待は穴の空いた風船のように萎んでしまう。
「まあ、そんなふうにおっしゃらないで。こちらこそオペラ通じゃなくて、ごめんなさい」
 オペラ通、などと言われては恥ずかしい限りだ。マニアックにのめり込んでいるわけではない。日常とかけ離れた夢の世界に惹かれているだけの事なのだ。恥ずかしさを隠すように話を続けた。

「私だって、詳しいわけではないですよ。ナンシー出身ですが、小学校の時に芸術学習で地元のオペラハウスで鑑賞したのが初めてです。でも、あまり興味は沸かなかったかな。子ども向けの短い内容だったと思うんですが、演目を覚えてない。もしかして学習用に制作されたものだったのかも。面白いと感じたのは大人になってからです。20代の終わり頃、ちょっと仕事でストレスが溜まって、気晴らしに普段、自分がやりそうも無い事をと思ったのがきっかけです。オペラ・バスティーユで『カルメン』の当日券を買ってから、舞台に魅了されました」
 本当のところは仕事のストレスではなく、前の恋人が去った時の事だ。時おり、心に隙間ができたような寂しさは感じたものの、ひどい悲しみを感じるでもない自分自身に不可解な感覚があった。女に振られた、とヤケ酒をあおったりする友人たちに比べて、自分は女性との深い愛情を構築できない冷たい人間なのかと思ったりした。
 勢いで観劇してみたが、主人公カルメンの歌うハバネラは彼を圧倒する。舞台はエネルギーに満ちていた。彼自身は味わった事の無い、男と女の愛憎が非常に人間らしく感じ、それに感動している自分がいた。非日常の舞台の中で、恋を追体験した。それ依頼、彼はオペラを好きになった。
「オペラは夢の舞台です」と、彼は赤い液体を口にした。
「まあ。では『カルメン』は、思い出の演目ですのね。1月の公演が楽しみですわね」
 共に行きたいと願っていた相手は、おだやかな眼差しで彼の顔を見つめた。

「ええ、楽しみです。⋯⋯でも、いいですね。先日のガルニエでは、オペラに行かれるご友人がいて」
 ヒネたわけではないが、彼女と連れ立ってガルニエ宮に行った誰かをうらやんだ。
「いいえ、ガルニエは1人で行きました。私の周りにも、もうオペラに行くような人はいませんもの」
「オペラにひとりで?」
「ええ。好きなものは、ひとりで行きます。連れがいなくても気にしませんわ。ムシュー・ラギエと同じです」
 あまりにも意外な答えに彼は驚いた。当然、彼女は誰か、友人なり家族なり、あるいは恋人と来ていただろうとしか考えてなかったからだ。彼自身はひとりで観劇することに慣れていたが、オペラ観劇なら女性は当然、誰かと同伴と思い込んでいた。そう考えていた自分自身が古い価値観の中にいたのではないかと、恥ずかしくなる。
 ただ「もうオペラに行くような人」と行った時の軽く目を伏せるようにした彼女の顔に憂いを感じた。だがこれ以上、私的な事を聞くのは礼を欠く。彼は気づかないふりをした。そんな彼の思いを知らずか、レティはガルニエの夜を思い返した。
「先日の舞台、やはり生で聞くのはテレビとは違って何倍もいいです。『ああ、そはかの人か』素敵でした。叔母に連れられて初めて観た時は、年齢的に物語はあまり理解できませんでしたが、生の歌声に圧倒されました。今は内容も含めて、より深く心に残ります」
 なるほど、彼女は叔母の影響でオペラに親しんだのかと納得した。今はもう叔母はいないのか、あるいは遠くに住んでいるのか、知りたい気持ちはあるがそれを聞くのははばかられる。なるべく当たり障りのない言葉で返してみる。
「わざわざ劇場に行かれたのは、『ラ・トラヴィアータ』の思い出があったのですね」
「ええ。私が小さい時に母は事故で天国に引っ越したので、叔母が親代わりです。彼女は色々な所へ連れて行ってくれました」

 父親が出てこないのは離婚なのか、あるいは初めから片親なのかと思えたが、今どき、そんな話はいくらでもあるだろう。
「そうですか、お母様はお気の毒です。でもとても素敵な叔母様なんですね。もしかしてあなたのロシア語が堪能なのは叔母様の影響ですか?」
 彼女は、あら、という顔をした。
「先週、カウンターにいたご夫婦とロシア語で話されてた時、会話が耳に入ったので。私には詳しい内容はわかりませんが、流暢に話されていたように感じました」
「ありがとうございます。叔母は教育にも熱心でしたので。でも病で、母と同じように引っ越してしまいました。私、叔母が元気な頃は通訳になりたいと思っていたくらいですわ。今、それが活かせていると思います」
 そう言い笑顔を見せた彼女は、人生の悲しみを受け止めて、なお前向きに歩んでいる姿勢と共に美しかった。きっとその叔母を大切に想っていたのだろう、そしてオペラ観劇に10代の子を連れていくのなら、その女性は教養のある人物と思えた。教育熱心でもあるのなら、生活に余裕ある立場なのも想像できる。その叔母が病没したのなら、彼女は生活の後ろ盾を失ったということか。今の立場を考えれば、そういうことだろう。
「ごめんなさい。ここでお話しすることではありませんでしたわね。失礼いたしました」
「いいえ、⋯⋯あなたの中に、叔母様の残したものが生きているのですね。とても素敵だと思います」
 ええ、と答える彼女は、叔母の事を思い出したのか、少し寂しげな眼差しを落とした。彼は自分の心臓が掴まれたかのように、痛みを覚えた。
 その時、新たな客が入ってきのかボンソワー、と彼女は入り口の方に声をかけ「では、ごゆっくり」と彼のそばを離れた。
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