仕事帰り、今日はオペラ雑誌の発売日だったと思い出して、ジェロームは本屋に立ち寄ることに決めた。ただ普段利用していた職場近くの大型書店は避けた。そこはペルシエが彼と出会った後に『暗い森の道』を購入した店であり、マチュー・ヴァロワのトークイベント会場として誘われた場所でもあるからだ。『銀の猫』でペルシエと会って以来、なんとなくその書店からは足が遠のいている。
幸い、きれいな夕焼けとは言い難い薄曇りの空だが、予報では雨は降らなさそうだし、カルチェラタンの書店で雑誌を買って、ぶらぶらと散歩してみるのは気分がいいかもしれないと脚を進めた。チェーンの大型書店に入ると、オペラ誌のある棚で雑誌を軽くめくってみる。来年公演予定のカルメンの記事に心がチクリと痛み、雑誌を閉じた。
今まで、飲食店の従業員と店の外で親しくなった事はない。客とスタッフ間としての親しみしか知らなかった彼は、今後をどうすればいいのか考えあぐねていた。おそらく今後も彼女は客としての彼を大切に扱ってくれるだろう。そう、客として。それでは2人の関係は、どうにも進みようがなかった。それとも何度か通えば、もう少し彼女との距離を近くできるのだろうか、知り合ってすぐさまにオペラに誘うのは早過ぎたのかもしれないと、いつになく前のめりになってしまった自分の行動を恥じた。
彼女はバーメイドだ。客相手なら誰にでも笑顔を返すだろう、そう思うと寂しい気分になる。自分もそんな客のひとりに過ぎないという現実を思い知る。
「ムシュー・ラギエ?」
唐突に、左横から夢想相手の声が聞こえた。驚いて顔を向けると、レティがいた。とたんに踊り出した心臓が、彼の顔を薄く赤らめる。
「これは⋯⋯また偶然ですね」
彼の言葉にレティがくすりと笑う。
「サン=ミッシェル通りの大型書店でオペラ雑誌のある棚の前なら、そんな事もあるんじゃないかしら」
そう、今のところ彼らの共通点は店員と客以外はオペラなのだ。しかしプライベートな時間なのに自分に声をかけてきた、というのは悪いことではないとジェロームは考察した。店外で客と顔を合わせるのが面倒なら、近づきはしないだろう。少なくとも、声をかける程度の好意はあるのだ、と。
「私、ちょっと時間潰しに来ましたの。ムシュー・ラギエはお仕事帰りですのね」
店と違って下ろした髪が肩より長く、ゆるいウェーブで顔を縁取っていた。私服の彼女を見るのは2度目だが、シンプルなベージュ色の薄手のコートの下はセーターにスラックスだ。さすがにここは劇場ではない。パリの街を歩く、いたって普通のパリジェンヌだ。時間潰しですかと尋ねると、彼の期待を膨らませる応えが返ってきた。
「ええ。この後、映画館へ。もっと早い時間に来ようと思ってましたけど、休日でも普段の生活リズムになってしまって」
バーの店員と客、常識的であれば『生活リズムは、体に染み込んでいるから大変ですよね。それでは、また』そう答えて立ち去る。しかし彼はそんな言葉は口にしなかった。せっかくのチャンスを逃したくなかった。
「ご友人と待ち合わせですか?」
ひとりです、という期待に合わせた応えがあった。
「映画もいいですね。何の映画ですか? よければご一緒してもよろしいですか? あ、失礼。店の客から言われたら、困りますね」
言いながら、このセリフは間違いないだろうと思っていた。客との関わりを避けるのなら、友人と一緒と答えるのではないか、彼は素早く思考する。意外な申し出に少し複雑な顔をして、レティが答える。
「ムシュー・ラギエのお好みに合うかどうか⋯⋯古い映画のリバイバルですのよ。『パリ、嘘つきな恋』というコメディです」
「ああ、コメディ、いいですね。気分が晴れますよ。ご迷惑でなければ、ぜひ」
普段なら異性に対して消極的な彼だが、精一杯の陽気な声を出した。
「コメディで気分を晴らしたいなんて、私も同じですわ。ぜひ、ご一緒に笑いましょう」
彼女の笑みが眩しかった。
今はプライベートなのだからムシュー付きで呼ばれるのは遠慮したい、ジェロームと呼んではくれませんかと申し出てみる。彼女はややためらいの表情を見せたが、一拍の間の後に了承した。
「ええ。わかりましたわ、ジェローム」
自分の名を呼ぶ彼女の声が、彼の心に沁みた。
『昨日の光』という名の古く小さい名画座は、彼にとっては珍しかった。今まで知っていた映画館と違い、ワンスクリーンのみ、客席は100程度で座席の状態も古く、座面を開くときしみ音がした。うっすら黄ばんだ壁紙は年季が入った、良く言えばノスタルジーを感じるような空間である。そもそも彼自身は映画を観に行くのはスペクタクルな歴史映画とか、社会派、気に入ったミステリーの映画化くらいで、年に数回だ。テレビとてニュースやその解説番組、情報としてのものばかりだ。唯一の現実逃避がオペラであった。恋愛映画は日常と地続きで、もっとかけ離れた、舞台としてのオペラに惹かれてきたのだ。
しかし、古い映画館での彼女との肩を並べた時間は楽しかった。作品は、最初に下半身不随で車椅子だと嘘を言った男が、同じ車椅子ユーザーの女性に惹かれ、現実をどう誤魔化して恋を成就させるかのコメディタッチのラブストーリーだ。彼女と笑いながら鑑賞できた。そう言えば、こうして女性と映画を共にするのはいつぶりだろうかとも思えた。
映画館を出ると外はとうに夜で、ジェロームが言葉を発する前に彼女から提案があった。
「私、ケバブを食べてから帰ります。よろしければ、いかがですか」もちろん彼はうなずいた。ふたりは映画の感想を話しながら、近くのケバブ店に落ち着く。彼女は軽い食事を済ませる程度でいいのだからと地元のケバブ店を選んだ。ファストフードよりも安価なケバブ店、ジェロームの仕事帰りのスーツ姿では場違いな気はするが、彼にとってはこの際、そんな事はどうでもよかった。
店の前に小さなテーブルに2脚の椅子がセットになった物がほんの2つばかりのテラス席があり、彼女は食後にタバコを吸いたいからとその席を選んだ。ジェロームは彼女が同好の士である事を喜んだ。彼女との距離が縮まった気がする。
「あなたもスモーカーだったんですね」
「ええ。仕事中は吸えませんけど」
店の客層は学生が多く、あるいはラフな服装の若者や観光客だ。テラス席に陣取るスーツ姿は少し浮いて見えるかもしれない。だがジェロームは気にすることもなく、ただひとり、目の前のレティに心の高鳴りと緊張を覚えていた。映画館では真横に座った相手の顔は見えないし、映画が始まれば意識がスクリーンに向かう。ふいに訪れた幸運に初めは緊張もしていたが、やがて落ち着いた。だが今、彼女と食事を共にする場面になって気恥ずかしさが戻ってきた。それは少年時代のときめきにも似ていて、自分の内面を知られないように、学生時代のような気分でケバブサンドにかじりつく。
チキンと七面鳥のミックス肉のジューシーな旨みが口の中に広がった。ほどよく効いたスパイスと、肉にマッチしたピリ辛ソースも味を引き立てる。彼の向かいに座ったレティも満足そうにケバブを味わっていた。
「おいしいわ。こんな店、あなたには縁が薄いでしょうけれど」
そもそもケバブは上品に食べられる物ではないが、彼女は慣れているのか、ピタパンから中身をこぼさないように上手に食べている。彼女の唇の端にうっすらと付いたソースにドキドキしながら、紙ナプキンを渡した。ガルニエ宮とは対極のケバブ店で周囲に馴染んでいる彼女の、違った面に出会えた。
「たしかに最近はそうですが、学生時代とか、よく食べましたよ。豪快にソースをポタポタこぼしながら」
そう答える側から、ジェロームも口の横についたソースを紙ナプキンで拭った。
食後は互いにタバコの箱を取り出したが、彼女がシガレットを口にするとジェロームは、すかさず箱の横に置いていた銀色のロンソン・バンジョーに手をやった。軽やかな金属音と共に蓋が開き、火が灯る。どうぞ、とその炎を彼女の顔の前に差し出した。その腕が震えないように気をつけながら。
ありがとう、とレティは会釈してジェロームの方へ軽く上体を近づけた。唇がフィルターを吸い、シガレットの先が赤く燃える。彼は、そんな様子に見惚れていた。自分のお気に入りのオイルライターで彼女に火を点ける日が来るなんて、考えたこともなかった。
「ジタン、きれいな箱。重いから私は吸えませんけど」
煙を吐き出した彼女はそう言って、テーブルの上の彼のジタンに目を落とした。それは先日、不愉快な男の口から出た言葉と同じだったが、今は少しも不快には感じなかった。ジェロームは自分も1本取り出して、火を点けた。
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