「ハイ、ミレーヌ。今日からボクが日本語を教えるよ。ヴィクトル・クーロンだ。よろしく」
黒の皮のライダースジャケットを着て、足はブーツで、ウエーブのあるダークブロンドが肩に届きそうな髪の青年が、やたらフレンドリーな挨拶をしながら書斎のドアから、入ってきた。ちょっと変わった人ですけど、とオルガの言葉をミレーヌは思い出した。
彼女は書斎の椅子から立ち上がり、握手のための右手を差し出した。
「はじめまして、ムッシュー。ミレーヌです。これからご指導ください」
「ムッシューはいらないよ、ヴィクトルと呼んで」
笑顔で応えを返した後、彼はミレーヌの手を握った。
「今までの先生の中でも、ダントツにお若いわ」
威厳のある初老の教師や、知性溢れるご婦人達、彼らはその深い教養でミレーヌの知的好奇心を満たしてきた。彼女が机の脇の教師用の椅子を手で勧めると、若い教師は手に持っていた四角い皮の鞄を床に置き、腰を降ろす。
「そう? 他の先生は?」
にこやかな顔で、興味深そうに尋ねてきた。
「お年の方の年令って良くわからないけれど、多分40代から50代の方が多かったわ。若い方でも30代半ばくらいだったと思う。ムッシューかマダムとお呼びしてたわ。今はもう、ラテン語のマダムとロシア語のムッシューしかいないけど」
「おう! 錚々たる先生方の中に、若い大学院生のボクが入るのは申し訳ないね。だから、ムッシューは要らないのさ。君はお父さんの事業の関係で、将来日本に移り住む予定って聞いてるよ。バッチリ勉強しようね」
表情豊かな青年は、いかにもパリ男(パリジャン)のような魅力的な笑顔を見せた。
『アジアの言語は、ヨーロッパとはだいぶ違います。覚えるのが難しいので、なるべく柔らかく、楽しく教えられる方にしました。それと設定を付けておきましたから、上手く合わせてくださいね』
オルガはそう言っていた。なるほど、これがその「設定」か、ミレーヌは納得する。ドイツ語でもイタリア語でもスペイン語でもなく、アジアの島国の言語を習うというのは珍しい。奇異に感じられないように必要なのだろう。楽しく教えられる方、がヴィクトルというわけだ。
彼は陽気な男で、ミレーヌは面白がった。今まで会った事のないタイプだ。高校の男の子達は、まだ親しく話す距離ではなかった。
「大学院生なの? 日本語研究の?」
ヴィクトルは、いやいや、と手を振りながら、
「専攻は機械工学系、日本語は趣味。中学生の時に日本のマンガ、カツヒロ・オオトモのAKIRAを読んだんだ。もちろんフランス語訳のね。それでハマっちゃって、日本語を覚えたい、原書で読みたいと、独学。人間、目的があれば何だってできるよね。知ってるかい? 日本のマンガは世界中で翻訳出版されてるけど、一番の販売数は、ここフランスなんだよ。そもそもこの国はジャポニスム文化があるわけだし。そうそう、ボクのバイクだってスズキのハヤブサさ。中古だけど」
ミレーヌには出てくる単語が何を意味しているのか、半分もわからなかったが、彼が来る前に外で大きなエンジン音がしたのはオートバイだったのかと理解した。ハハッ、と屈託なく笑う彼の顔には、好感が持てた。
「最近、高校に通い始めって聞いてるけど。 どう? 楽しんでる?」
話を振られて、授業を始めなくていいんだろうかと思ったが、教師が言うならと、会話に乗る。
「退屈な授業もあるわ。今までの家での先生方が優秀だったのね。でも、クラスメイトは楽しいわ。おしゃれの事、話したり」
「健全な学校生活、いいじゃない。ボクは小学校で1回飛び級したけど、その後1回留年したよ。笑っちゃうだろ」
私は小学校なんて行って無いけどね、とミレーヌは心の内で返事をした。前振りは終了らしい。彼は鞄から本や問題集らしき物を取り出すと、机の上に広げた。
「さて、じゃあ始めようか」
ヴィクトルが玄関から消えると、見送ったミレーヌは書斎に戻り、両手で何冊も本を抱えてダイニングに現れた。テーブルにどさりと本を置くと、
「なるほど、変わった先生ね。今日はABCに当たる、aiueoaiueoを習ったわ。それと素敵なプレゼントがこれよ。日本のマンガ『ベルサイユのばら』フランス語版と日本語版の。試しに読んでごらんって。女の子なら、この辺がいいだろう、だってさ。まあフランス革命が舞台みたいだから、ちょっと興味は沸いたけど。あの人、マンガで日本語に興味持ったんですって」
変人教師の感想を言って、椅子に腰を降ろした。彼女は今まで日本のマンガという物を読んだ事は無かった。
ミレーヌの大荷物にオルガは目を丸くしながらも、コーヒーを勧める。テーブルにはクッキーを並べた皿もあった。
「まあ、マンガを読んで、がんばってくださいね」
くすくすと笑いながら、オルガはクッキー皿をミレーヌの方へ差し出す。皿からクッキーを1枚つまむと、ミレーヌは口に頬張った。もぐもぐしながら、昨日の学校での事を思い出した。コーヒーで口を湿らせると口を開いた。
「ねえ、ロザリーってブロンドなんだけど、私がブロンドが羨ましいって言ったら、彼女、染めてるんだって。私も髪をブロンドにしたいわ! いい?」
「その髪をブロンドにするのは、髪の毛、痛みますよ。やりたいなら、かまいませんが」
「ほんと! うれしい! ずっと憧れだったの。美容院に予約を入れるわ! 明日空いてるかしら」
それはミレーヌの母の髪の色だった。彼女もオルガも口には出さなかったが、遠い記憶だった。ミレーヌの目にテーブルの上のマンガが入る。もしかしてお父様の出身は日本なのかしらと思った。
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