形の無い月 (11) 秘密 2

2021/09/27

二次創作 - 形の無い月

「夜の10時ごろ、モスクワ郊外の国道で、カーブを曲がりきれずに中央分離帯に衝突した事故です。原因はスピード超過と、運転手のアルコール摂取だと思われます。お母様は、ほぼ即死でした」
 そう、と答えて、ミレーヌはため息をついた。ようやく聞けた、母の最期。即死なら苦しまずに天に召されたのだろう。それはそれで、ささやかな救いだった。両の目から、涙が流れ落ちる。頬をつたう涙を手で拭いながら、過去のパズルのピースを求めた。
「お母様は、運転しないわ。ドライバーは誰?」
「お母様は助手席でした。運転者は20代の画家の男で、ご友人です」
 ご友人、とミレーヌはつぶやいて、視線を落とす。
「ボーイフレンドでしょ、親密な。私だって、もう、少しはわかるわ。モスクワにいた頃は、お母様とお父様は、お別れしていたのよね? ご結婚はされてなかったようだし。フランスでは結婚しないカップルが多いでしょ、だからそういう関係もあるって、知ってるわ。それに」
 一瞬、言葉を途切らせて、一気に口に出した。
「お2人の年令差と、お父様がとてもお金持ちである事を考えれば、お母様の立場がどうであったかも、想像できるわ」
 父の愛人、という言葉は口には出せなかった。12歳のミレーヌは、年令以上の知識と常識と、ませた少女の心で、オルガの前にいた。

「フューラー様とナターリア様のご関係については、詳しい事は存じません。私に与えられた使命は、ナターリア様の葬儀その他を迅速に行う事、あなたをパリのこの家に連れてきて、養育者としてレディに相応ふさわしく育てる事、です」
「運転してたボーイフレンドも、死んだの?」
「いいえ、重症でしたが入院中でした。意識はあったので、ナターリア様の死を伝え、他言無用の言葉と共に多額の現金を置いて、私は病院を去りました。その後は、知りません」
 お母様を死なせて、その男は生き残っていたのか、じわりと心臓に痛みを覚え、少女の心にどす黒いものが芽生えた。それは彼女が初めて知る感情であった。
「どんな人?」
 尋ねる声が、少し震えた。母の私生活を覗こうとしている自分に。
「たしか28歳の、駆け出しの画家という事です。特に聞いた名前ではありませんでした。最も、私も芸術に深い造詣があるわではありませんので。ロシアの事ですし」
「そう⋯⋯」
 ミレーヌの母は、美しい物が好きだった。きっとその画家は、お母様の好む絵を描いていたんだろう、彼女は走り去る車を、記憶の断片として持っている。
「そしてお父様は、私を引き取る気になったのね?」
「はい、と言うか、いいえです」
 その答えに少女は、怪訝な顔をした。

「ロシアの裏社会は、すでにネクライムの組織に組み込まれていました。事故があった時に、車のナンバーから持ち主、名義はナターリア様でした、それで本部経由でフューラー様に知らせが入ったのです。急ぎ、私がフューラー様の御前に呼ばれました。総統の前に召されるのは、滅多な事ではありません。その時に、おっしゃったのです。予定より早くなったが、と。もちろん私は質問などできる立場ではありません」
「予定より、早い?」
「おそらくは、もう少し後に引き取るご予定だったのではないでしょうか。私の想像ですが」
 自分の後継として、の言葉は口に出さなかった。
「そして今回、12歳になったら事実を伝えるようにと」
 本当に事実なのか、オルガの話は母の死から組み込まれた、犯罪組織の輪の中に入ってくる。
「なぜ? 本当の事を知らせるの? 今」
「覚悟を持つように、だと思います。12歳にもなれば、物事の分別がつきます。組織のトップの娘である事の危険性、そして、将来を考える時間が必要なのかと」
 そう言われても、実感が無かった。確かに母の話は、聞けた。しかし犯罪組織というのがピンとこなかった。つまりは、オルガやマリエットもその一員という事ではないか。それはとても想像できない。

「ねえ、オルガは、その、ネクライム?というのに入ったのは、なぜ?」
 やや沈黙があった後、オルガは目を細くした。
「ミレーヌ、それはマナー違反です」
 思わぬ言葉が返ってきた。ミレーヌは、え?と目を丸くして、オルガを見る。
「生まれた時から、悪人はいません。何かしらの理由で犯罪に手を染めるのです。それは他人に聞かせたい事ではありません。だから、互いに過去の話は聞かないものです」
 そう言うと、オルガは着ていたスーツのポケットから黒い物を出して、デスクに置いた。それは硬い金属の、重い音がした。テレビドラマで見るような、黒光りする拳銃だった。途端に、話に現実味が迫ってきた。
「これは、あなたに差し上げます。まだ弾は入ってませんよ。今度、練習しましょう」
 ミレーヌはベッドから立ち上がり、デスクの上の拳銃を凝視する。
「これは、合法、じゃないよね?」
「フランスでは狩猟かスポーツでの許可制ですし、まあ、これは違法です」
 事もなげにオルガは答えた。彼女にとっては、その程度の事なのだろう。彼女のもうひとつの顔を見てしまった事実に、心が震えた。幼い頃から「叔母」として常にそばにいた彼女の、知らない顔だ。
「違法なのに、練習って」
「狭いですが、地下のワインセラーを練習場として防音改築してあります。あなたが小さい時、家の修理と言って職人が来てたの、覚えてませんよね。職人もネクライマーですけど」

 それは、古いのでバスルームを改築しましたよ、と言うのと同じように聞こえた。
「たまに夜、私も練習してます。マリエットがいる時に。地下に入ると、家の守りができませんから。彼女も利用しています。あまり間が開くと、感覚を忘れてしまうので」
 ミレーヌは、何も言えなかった。エクササイズの練習のように口にするオルガに、自分の日常が皮を剥かれて闇が広がっていた事を知った。知らないのは自分だけだったのか。恐る恐る、銃を持ち上げてみた。黒い塊は、想像より軽かった。
「誕生日に拳銃のプレゼント。……私は、正義の味方にやっつけられる側なのね」
 一度に訪れた驚きと、悲しみと、悔しさと、そして何よりも恐怖で、少女は混乱し、整理できない感情が涙を落とした。当然のように予想された彼女の状態に、オルガは、少女の両肩に手を置いた。
「あなたが傷つくのはつらいのですが、銃は覚えておいて損はありません。この先、どんな事が起きるかわかりませんから。緊急ボタンを押しても、スーパーマンのようにすぐに助けが来るわけじゃありません。5分や10分はかかるでしょう。自衛のためと思ってください」
 『どんな事』でも動けるように、オルガはいつもパンツスタイルなのだと思い知る。いつもなら安心する彼女の手だったが、犯罪組織にいるだと思うと、ミレーヌはその手を振りほどいた。

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