いくつもの季節が過ぎて、また秋がきた。ミレーヌは、12歳になった。今年はまだ、父との会食は無い。そろそろだろうと思っていたのに、予定を聞かされる事が無かった。小ぶりのバースディケーキが夕食の食卓を飾り、グラスに注がれたグレープジュースでオルガのワインと乾杯する。今年はお父様は、と聞いたが、それは3日後ですと答えが返ってきた。
食事の後、部屋でベッドに寝転がり本を開いていると、ドアにノックの音がする。
「ミレーヌ、お話があるわ」
オルガが部屋に来て、そんな事を言うのはめずらしかった。いつもなら話はダイニングやサロンでしているのに、わざわざ部屋まで来て、というのは何か大事な話なんだろうとは察しがついた。
「どうしたの? めずらしい」
迎え入れたが、部屋に椅子は小ぶりのデスクのひとつしかない。ミレーヌは自分のベッドに腰を掛け、椅子をオルガに譲る。
「これから話す事を、よく聞いてください」
オルガの顔は、その表情は、どこかで見た気がした。憂いのある、ためらいがちなその表情は、何か、とても悲しい記憶と結びついていた。ミレーヌの心臓は大きく鳴り、不幸の鳥が舞い降りるのを感じた。
「あなたのお父様の名前はルシアン・フルーリーではありません。本当の名前は、フューラー様です。犯罪帝国ネクライムのフューラー総統です」
あまりに非現実的な言葉が出てきた。ミレーヌの身構えていた心が、ふっと緩む。
「何? 何言ってるの? オルガ、ワインで酔っちゃたの?」
笑い出しそうになるのを堪えて、ミレーヌは笑顔で返した。しかしオルガの固い表情は変わらなかった。
「ごめんなさい、最初の時に言った名前は嘘です。私が適当に答えただけです。幼いあなたがフューラー様の名前を他で口にしてしまわないように。先日、あなたが12歳になったら事実を伝えるように、総統から命じられました。世の中には、非合法な集団があるのはおわかりですよね。ネクライムも、そのひとつです。そして現在、組織は拡大しています。そう遠くない未来に世界中に支部ができると思われます」
視線を落としたオルガは、淡々と話を続けた。これは本当の事なんだろうか、何かのジョークでなく? ミレーヌの頭は混乱し始めた。セキュリティの施されたこの家、それがわかる歳になっていた。不自然なオルガとの同居生活、それにしても……もしかしてオルガは心を病んで、妄想しているのだろうか。
「覚えていませんか。お母様の葬儀の後、すぐにこのフランスへ来ましたね。役人に賄賂であなたのパスポートを超特急で作らせたのです。こんな事ができるのもフューラー様の力と言えます。この家で、それを知っているのは私とマリエットです。家庭教師達は、知りません。お金持ちのお嬢様と思っています」
今、オルガは何と言ったのか、マリエットも? ミレーヌは意味がわからなかった。
「だって、だってマリエットは土曜に休むし、バカンス取ってるじゃない!」
「フランス人は他人を詮索しません。とは言っても、高級住宅地で住み込みメイドもいるのに、バカンス中に家にいるなんて、不自然すぎます。それに犯罪組織と言っても、1年中休み無しではないんですよ。それでは奴隷です。そんな組織に、誰が入りますか? 今だって拘束時間が長くて休みも少ないんですから、バカンスくらい与えます」
「オルガはバカンス無いの?」
ミレーヌは聞いてみるが、自分でも間抜けな質問のように聞こえた。
「私は管理職みたいな立場ですから。それに見合う報酬はいただいてます。私は日曜日にお休みをいただきますが、その時はマリエットがいます。家の緊急ボタンで来るのは警備会社の者でなく、ネクライマー、ネクライムの構成員です。ただ彼らは真実は知りません。実験のひとつとして、英才教育でネクライムの幹部候補生を育てているという体になっています。それも、世界中に複数いるという事に。実際はどうか知りませんが」
「どうして?」
オルガは顔を上げて、ミレーヌと目を合わせ、声をひそめ、強い眼差しで言った。
「フューラー総統の娘が暮らしていると周囲に知られてはなりません。敵対する組織に襲われる可能性だってあります。これは、トップ・シークレットなのです」
これは本当なのかもしれない、ミレーヌは受け止めた視線で、過ぎた年月を思った。オルガやマリエットと暮らして7年近く、つまりは母よりも長く、一緒にいる。マリエットはメイドとして一歩下がった形で接してくるが、オルガは「叔母」として、言うなれば母の代わりだった。彼女の言葉と瞳に真実味があった。ミレーヌは視線を外し、
「フレンチ・マフィアの娘と言われた方がリアリティがあるわね。お母様は、その事を知っていたのかしら?」
おどけるように口にしたが、ふと気づいて、血の気が引く想像が頭を過ぎる。
「ちょっと、待って。じゃあ、もしかして、お母様は……?」
「あれは事故です」
即座にオルガは、きっぱりと答えた。
ミレーヌは、自分の拳を握りしめた。今なら、私は聞けるかもしれない、と。
「私、今まで怖くて、聞いた事がなかった。オルガが本当の事を話すなら、聞くわ。お母様の事故って、どんな事故だったの?」
自動車事故で死んだ、たったそれだけが少女の知っている事だった。ある日突然、死んでしまった母。母の最期を知りたいと娘が願うのは当然である。オルガは今までも、聞かれれば答える心積りであったが、幼い少女の口からその問いは出てこなかった。それが今日、こんな場面で話すのは皮肉だった。
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