カラブリアン・シャドウズ⋯⋯なぜレティシアの口から、組織の名が出るのか。ただのバーメイドではなかったのか、素性を調べた時に問題はなかったはずだ。アルマンの顔は演技を忘れていた。彼に思考の間を与えて、ひと息つくと彼女は言葉を続けた。
「ロッカーにあったのは男ふたりの平凡な写真ね。でもわざわざ貸しロッカーに預けてある。それが写真に意味を持たせるわ」
彼女の言う通りだ。ラギエのとった行動が、ただの写真でなくしてしまった。
「きみは⋯⋯誰だ?」
静かな瞳で、赤い唇が音を発した。
「わたしは、ネクライムよ」
男の体が総毛立った。彼女の口が発した組織名、総統フューラーを頂点とした犯罪帝国ネクライム、それは彼の属する組織の敵対組織だ。カラブリアン・シャドウズはイタリアを拠点にしていたが、ネクライムという大組織により、大いなる打撃を受けて解体したかに見えていた。いや、そう見せていた。組織は生き残っており、準備を整えて地道にフランスへの勢力拡大を狙っていた。彼女が素性を隠せたのは、組織力の違いであったかと心の中で歯がみした。
「最近、うちのルート以外で麻薬が出回っているみたい。まさかカラブリアンが息を吹き返してたなんてね。マルク・ペルシエ、彼は有能だわ。イタリア時代にカラブリアンと関わってて。足を洗ったと思ってたのに⋯⋯今後はネクライムに協力するそうよ」
節操のない商売人め、とアルマンは毒付いた。レティシアはひと口、ワインを飲んだ。
「入居希望のリナシメントにはカラブリアンの資本が入ってる。大消費地の近くに麻薬工場が造れれば、便利でしょうね。ジェロームは入札に勝ちたいコンサルタントの暴走かもと思ってたようだけど」
「それで、きみはラギエに近づいたのか」
「別件でクラヴリー局長はペルシエの差し出す甘い蜜を知ってるようだし、ジェロームは真面目で紳士だったから」
ははっ、とアルマンは小馬鹿にしたように笑った。
「あいつが真面目で紳士? やつは外務省にいた時に、ODAに隠して裏金が作られているのを見て見ぬふりしてたんだぜ? この国にとっての必要悪とか、笑わせてくれるよ」
しかし彼女は顔色ひとつ、変えなかった。
「そのストレスで心を病んだのだから、やっぱり真面目じゃないの」
「⋯⋯ラギエの事も調査済みか」
もちろん、というように彼女は軽くうなづいた。
「外務省での事をネタにして、ペルシエに協力するように”説得”したのかしら?」
「⋯⋯⋯」
「上手くいかずに、彼は死んだのかしら。あなたがミニコミ誌の担当者から事故を聞いたって、嘘でしょ?」
そういう彼女の目は、言外に「殺したのはあなた?」を含んでいた。アルマンはなにも答えなかったが、無言は、それを肯定していた。外務省での裏金は物的証拠はなかったが、脅しに使うには効くはずだった。しかしラギエは協力を断った。物的証拠のなさを見透かしていたのか、あるいは省内でやっきになって告発を否定するであろう国家権力に自信を持っていたのか、ラギエの思考はわからない。とにかくラギエは拒否した。
「きみはいつから、ぼくの事を知っていた?」
「夜行バスの後から。わたしに近づく男だし、フリーライターなら利用価値はあるかと調べさせたわ。⋯⋯あなた、麻薬の売人もやってるみたいね。ペルシエからの情報で、わたしに接触したのかしら。ジェロームと関係ある女なら利用できそうと」
レティシアは、利用できるかもしれない存在だった。だが思ったよりもラギエとの仲は深くもなく、利用価値は低かった。それでも関わり続けたのは、単純にアルマン自身の欲からだ。
「あのドライブの時も、知った上でか」
「でも楽しかったわよ、本当に」
「皮肉かい、嘘を知ってて楽しかったって」
「嘘つきなふたりの、楽しいドライブじゃない。あなたは楽しくなかったの?」
そういわれてしまえばうなずくしかないが、認めるのはひどく癪だった。軽く、ため息をついた。
「で、今日の素敵なご招待は、なんのため?」
「その質問は必要? ジェロームが残した物証の有無のために作り話をしたあなたが。万が一にも、わたしがそれを持って警察に駆け込んだりしないように、必死になっているあなたが」
愚問だった。自宅に届いた警告文に、クラヴリーは半狂乱の状態でペルシエに助けを求めた。そんな物を送りそうな人物はジェローム・ラギエくらいだ。ミステリー好きのラギエは、空き巣が侵入した可能性に、写真を自宅に隠すのをやめるだろう。だが死んだあの男は、写真を持っていなかった。ただの男ふたりの写真だ、遺族が彼の自宅から見つけても気にも留めないだろうと思い、捜索はしなかった。
そう、レティシアが貸しロッカーから出てきた所を見るまでは。
「今朝、声をかけて部屋に連れ込めば良かったよ」
「偶然って、ほんと怖いわね。この舞台、唯一の偶然だったかしら」
そうかもしれない。アルマンは、そのチャンスを逃した自分に運のなさを感じていた。
「リナシメント・エネルギー社は申請を取り下げるわ。資金ショートで、撤退するのよ。だってカラブリアン・シャドウズは壊滅するんだから」
彼女は視線をそらさずに、自分の横に置いてる黒いバッグから取り出したレーザー銃を彼に向けていた。
「今頃は、もうあなたの帰る組織は無くなってるわ」
男と女、体力差を考えれば彼女を押し伏せ、自由を奪う事はたやすい。ただ銃口が邪魔をしていた。逆に考えれば彼女が銃を持っているという事は、この部屋にネクライムの仲間は潜んでいないであろう予測がつく。アルマンは、ただ時を待っていた。
「楽しいドライブのお礼に、このまま見逃してくれる気とかは、ない?」
と、軽口をたたいてみる。
「⋯⋯私だって、組織の歯車よ」
彼女からの無慈悲な応えに、まあ、そうだよなと肘から折った両手を広げた。今度は柔らかい口調で、彼は軽く唇の端を上げてベッドに視線を移した。
「そのベッドは使われないままかい?」
「あなたとベッドインしたら、きっとすてきだったでしょうね。⋯⋯今さらな事は聞かないで」
低いトーンの魅力的な声がアルマンの男心をくすぐった。ベッドでの彼女の声が聞けないのは、しごく心残りではあった。初めに押し倒しておけば良かったよ、と彼はテーブルのグラスに手を伸ばした。持ち上げようとして、震える手がグラスを落とす。グラスは床に落ちて小さな音と共に割れ、赤い液体が広がった。
ああ、と彼は眉を寄せ、グラスの欠片を拾おうとひざまづくように体を屈めた。その間にテーブル脚元の自分のバッグを開けて、中にあるハンドタイプのレーザー銃を手に取り、立ち上がった。彼女に銃口を向けて「これで、おあいこ」と言葉を出す⋯⋯はずだった。
だが、言葉は出なかった。右手の物体の重量は違和感を覚えるほどバランス悪かった。銃を裏返すと、グリップの底には空洞があった。そこに装填されているべき、エネルギーパックはなかった。
ベッドに腰掛けたままのレティシアは、何事もなかったかのように彼を見つめている。
「さっき、外しておいたわ」
冷静な瞳だった。床にこぼしたワインを拭いた時かと、彼は納得するしかない。
念のためにとバッグに入れておいた銃だった。ホテルの部屋で待つ女、そこにおもむくのなら銃を身に付ける事はできなかった。上手く、いいくるめる自信はあった。銃は最悪の場合の手段だ。彼女に暴力は使いたくないし、素人相手なら銃を向けるだけでも恐怖は十分に与えられる。それで彼女との関係は終わるにしても⋯⋯。
「お見事だね」アルマンは、もはや役立たずになった銃をテーブルに置いた。そして今さっき、思いついた事を尋ねてみる。
「あの情熱的な出迎えは、ぼくが武器を身につけてないのを確認してた?」
レティシアは、笑みを返しただけだった。
「ところで聞きたいんだけど、きみはラギエと寝たのかい? ジェローム、と君が口にするたびに、ひどく嫌な気分になるんだが。やつと同じタバコを吸うのも、不愉快だ」
今さら取り繕う必要はない。もはや個人的な疑問しか残っていなかった。
「わたしはただの傍観者。ジェロームが甘い蜜に食いつかないように、彼好みの女を演じただけ。でも彼は手も握らなかったわ。真面目な、かわいい男⋯⋯これで彼の望んだ通りに、健全な企業の入札が通るわ」
彼女の言い方に、口をへの字に曲げてふん、と鼻を鳴らしてみたが、それまでだった。
「さよなら、アルマン」
抑揚のないレティシアの別れの言葉と共に、アルマンはテーブルの上の銃を彼女に投げつけ、姿勢を傾けて掴みかかろうとしたが、彼女はベッドに倒れ込んで投げられた銃をよけると自分の引き金を2度、引いた。アルマンの体は崩れ落ちた。
おそらく急所を撃ち抜かれた。うずくまった彼の体は、うめき声を出すくらいで、大きく暴れる事もなかった。体の芯から焼け落ちるような痛みが襲ってきた。うまく呼吸ができない。急速に死が近づいていた。
彼の体は、すでに自分の意思で動けないようだ。身体の痛みさえも随分と遠くに感じるくらいである。そもそも、どうしてこんな事になったのか、彼は最初に感じた自分の勘を信じるべきだったと後悔した。関わっていい女では無かったのだ、と。
それでも⋯⋯せめて最期は死の口づけくらいはしてくれないかと、つまらない期待を抱いた。自分の滑稽さに笑いたくなったが、もう声も出なかった。
「あなたの事は、けっこう、好きだったわよ」
女はそう口にしたが、男の愛したその声はすでに届いていなかった。男の視界の端に黒い小さな点が現れ、ぼんやりと同心円に広がった。その黒い円が広がりきる前に、少し離れた場所にまた同じように円が広がる。それがいくつもいくつも現れては視界を遮り、やがてすべてが闇に覆われ、彼はその闇に沈んだ。
彼女はハンドバッグへ銃をしまい、化粧コンパクトを取り出した。ベッドから立ち上がるとコンパクトを開き、ケースに埋まっていた短いアンテナを伸ばした。小さなボタンを押して、応答を待つ。ボタンの横のランプが点灯し、接続を知らせる。
「ミレーヌよ。済んだわ。面倒かけるわね、ありがとう。ええ。今度、お酒おごるわ」
それだけ伝えると、通信を終えた。
すでに動かなくなった男に背を向けて、部屋のドアを開ける。
廊下をエレベーターホールに進む彼女が、前から来た客室清掃用のカートを押す男ふたりとすれ違った。すれ違いざまに彼女は無言で部屋のカードキーを横に差し出した。ひとりの男がそれを無言で受け取り、彼女が出て来た部屋へと急いだ。
それが何曜日であろうと、シャンゼリゼ通りはそこかしこを歩く観光客でいっぱいだ。アドルフ・フォン・ルードビッヒは左腕に絡みつくように腕を組んでくる女と共に歩いていた。今日の女は、芸能関係のパーティーで拾った。彼の表の顔であるカジノで、併設された劇場で催すショーの顔つなぎで知り合った。
夕暮れも過ぎ、薄暗がりになった道ゆく人々の中に、こちらに歩いてくる見知った顔が現れた。黒いロングコートの前をきっちりと閉じた背の高い女は、髪を結っている。ヒールの高い靴でも履いているのか、余計に目立った。
彼の視線に気付いたのか、その女はルードビッヒに目を合わせ、薄い笑みを作る。近づき過ぎない程度の距離で女は歩調を緩め、彼の顔を見つめた。
「素敵な夜をお過ごしください」
そう挨拶をすると、すれ違い、去ってゆく。ルードビッヒは軽く、ああ、と応えただけだった。横の女は「誰よ、あの女」と、不機嫌そうに彼の顔を見上げた。
「ただの、バーメイドだ」
軽く後ろを振り返りながら、彼が答えた。
レティシアと名乗っていた女がアパルトマンの近くまで来ると、肩を寄せ合った建物の隙間から黒猫のシピが出てきたところだった。女の姿を認めると、その足元に寄ってくる。鼻を近づけ、その匂いを嗅いでいるようだ。アルマンの匂いが残っているのかもしれない。
女はしゃがみ込んで、シピを撫でようとゆっくりと右手を出した。シピは、今度はその指の匂いを嗅ぎ始めた。女は手の平で、ゆっくりと黒い毛皮を撫でてみる。滑らかな感触と、命の証の温もりを感じていた。「彼女」は、気持ち良さげに目を閉じた。
「ごめんなさいね、わたしはおまえを飼えないの。もうじきに、いなくなるから」
右手は撫でるのを止め、今度は両手でシピの首輪を外した。邪魔な首輪がなくなって気を良くしたのか、猫は女の脚に身を擦り寄せた。
「おまえは、自由よ。好きに生きなさい」
女は立ち上がると首輪を道端に放り投げ、歩き出す。
「ミャォォォン」
女の後ろ姿に、黒猫がひと声、鳴いた。
(了)
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