形の無い月 (9) 素朴な疑問

2021/09/27

二次創作 - 形の無い月

 ミレーヌはパリに来て、その生活は大きく変わった。
 オルガ・ワトーを養育者として、メイドはロシア語も話せるマリエット、モスクワにいた頃のマルタと違い、「お姉さん」だった。家庭教師はフランス語、忘れないようにロシア語の語学教師が最初である。家にある小さな書斎が学習室とされた。
 オルガと出かけた街中で、ストリート・ピアノの音が耳に入った。楽しそうに弾く人を見ていたら、翌週にはサロンにアップライトピアノが鎮座し、ピアノ教師も来るようになる。水泳教室にはオルガの送迎だ。
 時々、パリ市内の動物園や水族館、博物館や美術館にもオルガに連れて行かれた。やがて英語、算数、理科、地理に歴史の教師達が、決められた日ごと、時間ごとに訪れる事にもなる。
 フランスには夏のバカンス期間がある。メイドや家庭教師には当然の権利として休暇があった。そんな時は、オルガと2人で南仏のホテルで2週間ほど過ごす。フランス語の復習をオルガがみたり、ロシア語の問題集を2人でやったり、指を動かすためにポータブルキーボードで練習をしたりと、勉強漬けなのはあまり変わらなかった。

 会えないならお父様に手紙を書きたい、そう言ってオルガに便箋と封筒をねだり、月に1度は手紙を書く。その日あった授業の事、先生が言った面白いジョーク、ピアノを褒めてもらえた事、マリエットの焼いたケーキが失敗した事、そんな他愛の無い日々の事を、つたないながらも書き送った。毎回、便箋と封筒を変えて、凝ってみたりもする。
 「お父様は、とてもお喜びですよ」とオルガは言うが、返事が来た事は無かった。「お忙しい方なのです」すまなそうな顔で言われるだけだった。
 返事の代わりにプレゼントが届く。服や靴、アクセサリー、年相応の、だが上等の品々。それを見ると品物で誤魔化されたような気分になる。だがアクセサリーはペンダントやネックレス、ブローチとあってもピアスが贈られた事は無かった。それは母の形見のピアスを大切にして欲しいという、父からの無言のメッセージではないかと娘は漠然と理解した。
 今になると母との生活そのものが、記憶の断片であった。自分を包む手、何か言われながら頬にキッスされた事、見下ろした遠くの車に消える母。
 そして母の死は、禍々まがまがしい闇が胸を苦しくさせるので思い出したくなかった。けれど覚えなくてはいけない様々な事が、そんな嫌な記憶を押しやっているのは確かと言えた。疲れた頭は休息を求め、夜は早々に睡魔が襲う。

 そんな生活が2年近く過ぎた。ミレーヌは、もうすぐ7歳になる。
「ねえ、どうして私は学校に行かないの? 子供は学校に行くんじゃないの?」
 ある日の朝食、クロワッサンを食べ終えて、ごくんとミルクを飲み干した後、ミレーヌは素朴な質問を淡々とオルガに尋ねた。本を読んでもテレビを見ても、子供達は学校へ行く。それはごく当たり前の疑問だった。
 テーブルの向かいに座っていたオルガは、カフェオレのカップを受け皿に置きながら、説明する。
「学校に行かず、家庭の中で教育を受ける。ここフランスでは少ないですが、イギリスやアメリカでは一定数います。より良い教育を望むご家庭では、ある話です。学校の授業では、内容が物足りないのです」
 今ではオルガもロシア語でなく、フランス語で話す。教師のレベルは高かったが、ミレーヌの覚えも早かった。ロシア語は習っていたが生活圏がフランス語なので、彼女の母語は、いつの間にかフランス語に変換していたと言える。
 親のいない家は家庭なの? 少女は心の中で毒づいてみた。いくら仕事で忙しいとはいえ、年に1回、誕生日の前後にレストランで食事をするだけだ。父と自分の他に客は居ない、貸切のレストラン。ボーイが料理を運んでくるが、去年など食事の途中で父は「急用」で帰ってしまった。

 ようやく会えた父に色々話したい事もあったのに、たいした話もできず、また来年。ドレスや本や様々なプレゼントは届くが、会える時間は短かった。
「そしてセキュリティ、これは大きいです。最近では幼い子が通う学校に、刃物や銃を持って侵入する者だっています。学校の中では私があなたの警護をするわけにもいきません。あなたの身の安全を思ってのことなのです」
 諭すかのようにオルガが理由を口にする。
「それなら、他の子は!」
 娘の安全は過保護なまでに考えるくせに、一緒に過ごす時間は無い父に、癇癪かんしゃくを起こしそうになる。
「それは、よその家庭の事ですから。ねえミレーヌ、あなたの言いたい事はわかります。学校も行きたいけれど、それ以上にお父様が来ない事が、嫌なのでしょう?」
 オルガに図星をされて、ミレーヌは顔を背けた。彼女は、いつも少女の心を見透かす。
「お父様は、大きな企業を治められています。世界中に事業を広げようとして、飛び回っているのです。どうしても時間が取れない事は、わかってください」
「わかりたくない」

 すねてみても、現状は変わらないだろうとは思えた。しかし、すねる事に快感はある。オルガが心配そうに自分を見つめる眼差まなざしが、くすぐったく、嬉しい事を自分でも知っている。
「しょうがない、お父様よね」
 照れ隠しにそう言うと、立ち上がって今日の教科の準備に書斎に足を向けようとした。と、朝食の前に気づいていたが話題に出せなかった言葉を口に出す。
「オルガ、その腕輪バングル、素敵ね」
 言われて、オルガは自分の左手首に目をやった。唐草模様の掘られた金のバングルは、彼女の人差し指より細いくらいで、品よく手首を飾っていた。
「昨日、たまたま蚤の市で見かけて⋯⋯気に入って、衝動買いです」
「しょうどうがい?」
「買う予定が無かったのに、欲しくなって買ってしまう事です」
 少女は、またひとつ単語を覚えた。
 オルガは、いつもシンプルなパンツスタイルで、スカートを履いてるのを見た事が無い。動きやすいですから、が理由らしいが、耳のピアスくらいで洒落っ気が無いのが、母と正反対だった。
 目を細めてバングルを眺め、思い出したように笑みを浮かべるオルガは、とてもご機嫌のようだ。そんな彼女を見るのは珍しく、ミレーヌにも笑みがこぼれた。

→秘密 1

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