ミレーヌはパリに来て、その生活は大きく変わった。
オルガ・ワトーを養育者として、メイドはロシア語も話せるマリエット、モスクワにいた頃のマルタと違い、「お姉さん」だった。家庭教師はフランス語、忘れないようにロシア語の語学教師が最初である。家にある小さな書斎が学習室とされた。
オルガと出かけた街中で、ストリート・ピアノの音が耳に入った。楽しそうに弾く人を見ていたら、翌週にはサロンにアップライトピアノが鎮座し、ピアノ教師も来るようになる。水泳教室にはオルガの送迎だ。
時々、パリ市内の動物園や水族館、博物館や美術館にもオルガに連れて行かれた。やがて英語、算数、理科、地理に歴史の教師達が、決められた日ごと、時間ごとに訪れる事にもなる。
フランスには夏のバカンス期間がある。メイドや家庭教師には当然の権利として休暇があった。そんな時は、オルガと2人で南仏のホテルで2週間ほど過ごす。フランス語の復習をオルガがみたり、ロシア語の問題集を2人でやったり、指を動かすためにポータブルキーボードで練習をしたりと、勉強漬けなのはあまり変わらなかった。
会えないならお父様に手紙を書きたい、そう言ってオルガに便箋と封筒をねだり、月に1度は手紙を書く。その日あった授業の事、先生が言った面白いジョーク、ピアノを褒めてもらえた事、マリエットの焼いたケーキが失敗した事、そんな他愛の無い日々の事を、つたないながらも書き送った。毎回、便箋と封筒を変えて、凝ってみたりもする。
「お父様は、とてもお喜びですよ」とオルガは言うが、返事が来た事は無かった。「お忙しい方なのです」すまなそうな顔で言われるだけだった。
返事の代わりにプレゼントが届く。服や靴、アクセサリー、年相応の、だが上等の品々。それを見ると品物で誤魔化されたような気分になる。だがアクセサリーはペンダントやネックレス、ブローチとあってもピアスが贈られた事は無かった。それは母の形見のピアスを大切にして欲しいという、父からの無言のメッセージではないかと娘は漠然と理解した。
今になると母との生活そのものが、記憶の断片であった。自分を包む手、何か言われながら頬にキッスされた事、見下ろした遠くの車に消える母。
そして母の死は、禍々しい闇が胸を苦しくさせるので思い出したくなかった。けれど覚えなくてはいけない様々な事が、そんな嫌な記憶を押しやっているのは確かと言えた。疲れた頭は休息を求め、夜は早々に睡魔が襲う。
そんな生活が2年近く過ぎた。ミレーヌは、もうすぐ7歳になる。
「ねえ、どうして私は学校に行かないの? 子供は学校に行くんじゃないの?」
ある日の朝食、クロワッサンを食べ終えて、ごくんとミルクを飲み干した後、ミレーヌは素朴な質問を淡々とオルガに尋ねた。本を読んでもテレビを見ても、子供達は学校へ行く。それはごく当たり前の疑問だった。
テーブルの向かいに座っていたオルガは、カフェオレのカップを受け皿に置きながら、説明する。
「学校に行かず、家庭の中で教育を受ける。ここフランスでは少ないですが、イギリスやアメリカでは一定数います。より良い教育を望むご家庭では、ある話です。学校の授業では、内容が物足りないのです」
今ではオルガもロシア語でなく、フランス語で話す。教師のレベルは高かったが、ミレーヌの覚えも早かった。ロシア語は習っていたが生活圏がフランス語なので、彼女の母語は、いつの間にかフランス語に変換していたと言える。
親のいない家は家庭なの? 少女は心の中で毒づいてみた。いくら仕事で忙しいとはいえ、年に1回、誕生日の前後にレストランで食事をするだけだ。父と自分の他に客は居ない、貸切のレストラン。ボーイが料理を運んでくるが、去年など食事の途中で父は「急用」で帰ってしまった。
ようやく会えた父に色々話したい事もあったのに、たいした話もできず、また来年。ドレスや本や様々なプレゼントは届くが、会える時間は短かった。
「そしてセキュリティ、これは大きいです。最近では幼い子が通う学校に、刃物や銃を持って侵入する者だっています。学校の中では私があなたの警護をするわけにもいきません。あなたの身の安全を思ってのことなのです」
諭すかのようにオルガが理由を口にする。
「それなら、他の子は!」
娘の安全は過保護なまでに考えるくせに、一緒に過ごす時間は無い父に、癇癪を起こしそうになる。
「それは、よその家庭の事ですから。ねえミレーヌ、あなたの言いたい事はわかります。学校も行きたいけれど、それ以上にお父様が来ない事が、嫌なのでしょう?」
オルガに図星をされて、ミレーヌは顔を背けた。彼女は、いつも少女の心を見透かす。
「お父様は、大きな企業を治められています。世界中に事業を広げようとして、飛び回っているのです。どうしても時間が取れない事は、わかってください」
「わかりたくない」
すねてみても、現状は変わらないだろうとは思えた。しかし、すねる事に快感はある。オルガが心配そうに自分を見つめる眼差しが、くすぐったく、嬉しい事を自分でも知っている。
「しょうがない、お父様よね」
照れ隠しにそう言うと、立ち上がって今日の教科の準備に書斎に足を向けようとした。と、朝食の前に気づいていたが話題に出せなかった言葉を口に出す。
「オルガ、その腕輪、素敵ね」
言われて、オルガは自分の左手首に目をやった。唐草模様の掘られた金のバングルは、彼女の人差し指より細いくらいで、品よく手首を飾っていた。
「昨日、たまたま蚤の市で見かけて⋯⋯気に入って、衝動買いです」
「しょうどうがい?」
「買う予定が無かったのに、欲しくなって買ってしまう事です」
少女は、またひとつ単語を覚えた。
オルガは、いつもシンプルなパンツスタイルで、スカートを履いてるのを見た事が無い。動きやすいですから、が理由らしいが、耳のピアスくらいで洒落っ気が無いのが、母と正反対だった。
目を細めてバングルを眺め、思い出したように笑みを浮かべるオルガは、とてもご機嫌のようだ。そんな彼女を見るのは珍しく、ミレーヌにも笑みがこぼれた。
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