女のアパルトマン前の路地で軽くクラクションを2回鳴らして、アルマンは車から降りた。先日と同程度のコンパクトカーで色は白だ。2階の窓が開いてレティが顔を出し階下を見下ろして、彼の姿を確認すると笑みを浮かべて軽く手を上げた。アルマンは顔を仰ぐと同じように手を上げ、彼女と挨拶を交わす。閉じた窓を見届けると運転席に戻り、レティの到着を待った。
「どこへ行くの?」
今日のレティはクリーム色のウールのコートだ。コートの下にVネックの七分丈の黒のカットソー、くるぶしが見えるくらいのオフホワイトの細身のパンツ、ローヒールのパンプスである。アルマンが行き先を知らせていないからカジュアルな装いだ。それでも深めのVネックで現れた、彼女の鎖骨が美しい。
アルマンはアイスティーのペットボトルを彼女に渡すと、朝メシは? とたずねる。コーヒー飲んだだけと答えが返ったので、立てた親指で後部座席の紙包を指差した。
「サンドウィッチ、パン屋で買っといた。どうぞ、お姫さま」
「気の利いた王子さまね。いただくわ」
レティシアは脱いだコートと紙包の場所をチェンジする。彼女がシートベルトを付けたところで車を発進させた。
「ドーヴィルまでドライブしよう。行った事、ある?」
パリから北西に直線距離で約165km、ノルマンディー海岸のリゾート地の名を口にする。車で行くなら200kmは超える。
「ドーヴィル! 遠いわよ」
「高速道路を突っ走れば、2時間半くらいさ。古い映画が好きって言ってたろ? 『男と女』の舞台なんて、ドライブにいいじゃないか」
もちろん映画よろしく、本日の『男』であるアルマンは横に乗せた女と親密さを増す事を期待している。彼女がサンドウィッチの包みを開く音がする。
「ずいぶんと古い映画を知ってるのね。ドーヴィル、行った事はないけど映画は見たわ。楽曲が、どれもすてきだったわ」
「ばあちゃんが好きだったらしくて、ボクが小さい頃、家事をしながらあのテーマ曲を鼻歌してたのさ。ダバダバダ、ダバダバダって。ま、ばあちゃんにしても見たのはリバイバルだけど。それで13か、14の時だったかな、たまたま名画座でかかっていたから映画を見た。レースシーンとか、カッコ良かったね。古き良き時代の、タイヤの付いた車でさ」
ほどなくエア・カーはオートルートA13を走り出していた。雲で覆われた空はあまりドライブ日和とは言えなかったが、自然には勝てない。
「ちゃんと今日中に帰ってくるんでしょうね? 私、明日は仕事よ。仕事が夜だからって、今晩どこかでとかは、いやよ」
彼女は軽い口調ではあったが、その声の底に毅然とした意思が感じられた。
「きみとドライブしたいだけさ。海岸散歩して、シーフード食べて帰ろう。ドーヴィルへの往復なんて、すぐさ」
「ホテルのレストランで、部屋まで注文しないなら、いいわよ」
レティは映画になぞらえて承知する。アルマンは軽く笑った。
「大丈夫。そんな豪勢なことにはならないよ。街の大衆食堂あたりでさ。映画のようにシャレた電動幌付きの高級オープンカーじゃないのは大目にみてくれるとうれしいね」
横で小さく笑った気配があって、アルマンは気分よくアクセルを踏み、さらに車を加速させる。
「せっかくの高速道路だけど、安いレンタカーは自動運転が付いてないのが玉にキズさ。ま、好きに飛ばせるからいいけどさ。ああ、知ってるかと思うけど、レンタカーは禁煙だよ」
「ええ、知ってるわ。でも私がスモーカーだって⋯⋯」
彼女のぽってりとした唇の感触を思い出して、アルマンは目を細めた。
「この前ので、わかるじゃないか」
「⋯⋯匂いね。あなたは吸わない人って事ね。健康的でいいわ」
彼女は小ぶりのサンドウィッチを食べ始めたようだ。
A13は高速道路特有の単調な区間ばかりでなく、適度に景色が変わっていくのでドライブにはちょうどいい。バックミラーに映るラ・デファンスの高層ビル群が小さくなり、周囲に緑が増え、丘陵地帯になった頃、レティがアルマンの調子に合わせた礼を言う。
「ごちそうさま。おいしかったわ、王子さま」
「レンタカーの王子だけどね」
と、おどけてみせる。
「いいじゃないの。ごく普通よ。パリ近郊で車を持ってる人なんて、お金に余裕のある人たちだわ。⋯⋯あの映画は夢の世界だもの。プロレーサーでお金持ちの男と、映画の記録係でシングルマザーのキャリアウーマンなんて、当時の女たちから見たら、夢物語じゃないの。比較的女性の進出が早かった映画業界だからこそ、ギリギリ設定できる感じじゃない? 女が夫の許可なしに銀行口座を開設し、仕事に就けるようになったのって、あの映画の前年なのよ」
「くわしいね。映画に? 歴史に? 女性の社会的地位に? なるほどな。夢の世界だから、ばあちゃんも憧れていたのかもなぁ」
アルマンはダバダバダ⋯⋯と、口ずさんでみせた。
「古い映画って、その時代時代の背景を知ると理解が増すから、調べて知ってるだけよ。夢物語でも、あの映画はシンプルで素敵よ」
「10代のガキには愛は、まぁそんなもんなのかなってくらいだったけど、今の年齢で見れば、また違うんだろうな」
「観るには年が若すぎたのかもね。おばあちゃん子の、アルマン少年」
「映画を観たのは、ばあちゃんが死んだ後だったからね。⋯⋯そう、今はもう大人。映画と違って、フリーの底辺ライターとバーメイドのドライブさ。ところでレティは愛称でしょ? ほんとの名前を教えてよ」
「⋯⋯レティシア・エモンよ。でもレティでいいわ」
「レティシア、いい響きじゃないか、魅惑的なきみの声のようだよ。そうだ、グローブボックスの中にシピの写真があるよ。最初に出会った時のやつ」
レティシアはグローブボックスを開けると、表紙に写真店の名前が入ったミニアルバムを取り出した。写真はすべてモノクロ写真で、街並みの風景の中に黒猫がコントラストを持って存在感を漂わせている。
「うまく撮れているのね。シピが、きれいだわ。でもちょっと寂しさを感じるような風景。モノクロームが好きなの?」
「んー、今はちょっと白黒を試しているところ。シピだと、ちょうどいいでしょ。モノクロ世界のお姫さまで」
周囲の景色は畑や牧場が増えてきて、のどかな田舎の風景になってきたが、曇天の空から小さな雨粒が落ちてきた。
「雨が降ってくるのまで、映画のままか。ツイているのか、いないのか」
そう口にはしても、彼は上機嫌のままだ。
途中、小雨が降りはしたが、海が見える頃には雲が薄くなって雨も止んだ。午後のせいか、潮風が強い。アルマンは車を降りる時にカメラを持ち出そうとしたが、レティシアに断られた。
「まだ自分の写真を撮らせるほどには、仲良しじゃないわよ。そのうちにね」
どうやらドライブするくらいでは、彼女の心には遠いらしい。そんな事もあり、海を眺めながら砂浜を歩くふたりは腕を組むこともなく、微妙な距離で並んでいた。バカンス期間でもない、晩秋の海は人気もまばらだ。下ろしたままのレティシアの髪が風の中で舞っている。肌寒い中、彼女はしっかりと前を閉じたコートで、両手をそのポケットに入れていた。アルマンもまた、皮のジャケットの前を閉め、同じようにポケットに手を突っ込んでいる。
「アルマン、普段はどんな記事を書いてるの? 読んでみたいわ」
あまり聞かれたくない話題になった。
「あー、まー、それは。女性にはあまり見せたくない記事かな。主に⋯⋯男性向けの」
彼女はそれを察したのか、小さく笑った。
「じゃあ、それとは別に取材してるの? 汚職関係を。この前、言ってたじゃない」
「それはまだ秘密。上手くまとまったら、署名記事は無理でも、知り合いに売り込む予定」
大きな波が砕けて、ふたりの足元近くまで海水がすーっと走った。濡れちゃうわ、と彼女は海から後退りする。アルマンは追いかけるように彼女のそばまで動くと、片腕でその肩を抱いた。
「いいじゃない、そんな話は。せっかく来てるんだから、仕事なんか忘れよう」
「あなたを知りたいと思ったからよ」
アルマンの腕からするりと体を逃すと、レティシアは海を眺めた。幾度も幾度も、寄せては返す波音に終わりはない。
「風が冷たいけど、海の音って好きよ。人間がどうにもできない自然を感じて」
アルマンは彼女に近づき、もう一度、その肩を抱いて、自分の体に引き寄せる。
「体が冷えちゃうよ。街中をぶらぶらして、シーフードの店を探そう」
車のライトが見覚えのある通りを照らしていた。ダッシュボードの時計は21時30分を過ぎたあたりだ。
「このくらいの時間なら、明日の仕事に響かないでしょ。疲れた?」
アルマンは出発前の言葉通りに、その日の内にレティシアを住まいまで送り届けた。彼女は素直に礼を言う。
「いいえ、平気よ。楽しかったわ。仕事が夜だから、こんな風に遠出して、外の景色を眺めていたのは久しぶりよ。ありがとう」
「少しは『お友だち』より、近くなれたかな」
アルマンの言葉に、彼女は顔を近づけた。彼の唇に、軽いキスをする。アルマンが抱きしめる暇も与えず、体を離して助手席のドアを開けた。
「今は、このくらいの距離。電話番号は教えたでしょ? おやすみなさい」
微笑みを残して、アパルトマンの集合玄関へ向かったレティシアの背中に、おやすみ、またねと返して、ドアが閉まるのを確認してから車を走らせた。
「まあ、猫は追いかければ追いかけるほど、逃げるもんだ」
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