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夜の爪あと (19) 2枚の写真

2025/07/18

二次創作 - 夜の爪あと

「例の件だが、明日のランチでどうだ?」
 ゴシップ記者のルイ・モーリスからジェロームに連絡が来たのは、あの相談から10日経っての事だった。前と同じカフェで待ち合わせをしたが、モーリスは10分ほど遅れてきた。調査の結果報告に気を重くしていたジェロームのテーブルにはコーヒーカップのみが置かれている。タバコを吸いたくはあったが、往来のテラス席で話をする気にもなれず、店内奥の目立たない席を選んでいる。
「悪いな。色々忙しくてさ。弱小出版社だから、人手が足らないんでね。ああ、ポークのグリルサンドとカフェオレね」
 モーリスはさして悪びれもせずにそう言いながら、すぐさまに店員に自分の昼食を注文すると席に着く。少しくたびれた革のブルゾンの内ポケットから手帳を出してページをめくった。
「さっさと用件に入るぞ。まずは例の経営コンサルタント、マルク・ペルシエな。今のアパルトマン、3年目だ。パリの前はマルセイユにいたらしい」
「マルセイユ⋯⋯南仏か。イタリア生まれだと言ってたしな。なんでパリに来たんだ?」
「さあな。仕事の規模をデカくしたくなったんじゃないか? 今じゃ手広くやってるみたいだ。ちなみに家族構成までは分からんが、5月4日にナントの交通事故で肋骨にヒビが入った中年男はいなかったぜ」
 少し得意そうにモーリスは調査情報を口にした。やはり、あの夜ペルシエの口にしたホテルキャンセルの話は作り話だったのかと、ジェロームは体を硬くする。
「やはり、嘘だったのか。出来すぎの話だからな。⋯⋯それにしても、ずいぶん甘く見られたものだな。多分、あてがわれた部屋には想像どおりに女がいたんだろう。それで買収できると思われていたのか」
 ジェロームは自分を不当に推察されたことに対して、無性に腹が立った。

「ま、ホテルキーを受け取るような男なら、部屋の美女に食いつくだろうってとこじゃないのか。で、その女だ。その女つながりなんだ」
 朝から曇天で、時おり雨がパラつくような天気だが、ランチタイムのカフェは混んでいた。人々のざわめきの中で、モーリスは体を前のめりにして秘密の話を続けた。
「今、追っかけてるのが某芸能人の愛人・隠し子疑惑でピガールで取材してたんだが、たまたまペルシエを見かけたのさ、男連れで。その男ってのが、クラヴリー環境総局長さ」
 パリのピガール地区、19世紀から歓楽街として発展したエリアは、観光スポットと化した老舗の大型キャバレーはもちろんの事、今では観光客向けのバーやライブハウスが増えていた。だが街としての猥雑さは色濃く残り、ストリップバーやアダルトショップが派手なネオンを誘蛾灯のように光らせてもいる。ジェロームにしてみれば足を踏み入れる事のない場所だ。
「で2人は、とある会員制バーに入っていったのさ。ただペルシエは10分ほどで出てきた。クラヴリー局長が出てきたのは1時間ばかり後だけどな」
 モーリスは床に置いた肩掛けのナイロンバッグからA5サイズの封筒を取り出し、ジェロームに渡した。封筒の中には2枚の写真が入っており、1枚は店のドアとおぼしきシックで重厚なドアに手を当ててクラヴリーを先に案内するかのようなペルシエ、もう1枚は店から出てきたクラヴリーだ。
「やはり、局長はペルシエとただならぬ仲なのか。でも短時間でペルシエが出てきたのは、よくわからないな」
「多分、紹介しただけじゃないのか。会員制だからな。⋯⋯この店な、実は」
 言いかけたあたりで、店員が注文の品を持ってきた。置かれた昼食を横目にモーリスは店員が去るのを待った。そして再び体を乗り出し、声をひそめた。
「この店、奥には高級娼婦がいるって噂だ」
 ジョロームは一瞬、息が止まった。ひと通りの状況を話すと、旧友の様子を気にもせず、モーリスはグリルサンドにかぶりついた。ジェロームは冷めたコーヒーを飲み干して、心を落ち着けようとするが、周囲の音が遠くに感じる。

「まっ、あくまでも噂だ。前にその店を記事にしようとしたやつもいたんだが、上からの圧力で潰されたよ。どこぞの財界人だかお偉いさんが贔屓ひいきにしてるらしくてな、ヤボな事はするなってさ。お手上げさ」
「でも、公務員が利害関係者と共に店に入ってるんだ。これは不正疑惑として仮名でも記事にならないか?」
「これだけじゃなあ」
 咀嚼しながら、モーリスは次々とダメ押しをしてきた。
「友人にバーを紹介しただけ、とか言い逃れるぜ。局長は一度離婚してるし、その後のパートナーとも今は解消してる。高級娼婦が本当だとしても、そりゃあ個人の問題だ。買春が罪でも、パリには聖人君子しかいないなんて思っちゃいないだろ? せいぜいただのスキャンダルさ。贈収賄と結びつけるには証拠が足りなすぎる。娼婦が賄賂だとしてもな。ついでに言えば、オレとしてもこれ以上は関わりたくない案件だ。その写真はやるよ。まあ、どうにかして局長を説得でもしてみたらどうだ?」
 ジェロームはため息をついた。
「友人価格にしては安いと思ったよ。これ以上、手をわずらわせたくないって事だな」
 懐から出した札入りの封筒をモーリスに渡した。まあな、と彼は謝礼を受け取って、サンドウィッチの残りを口に入れた。ムシャムシャと口を動かしながら、とどめの言葉を出す。
「写真の原板は、無いぜ。編集長に見つかっちまった。お前に渡す分は別にしてたから残ったけど、オリジナルは廃棄されちゃったからな。関わりたくないって言うのは、そういう意味さ」
 漠然と、経営コンサルタントが入札に絡んだ市役所職員と密談している、ジェロームはそんな内容の記事を期待していたのだが、どうやら失敗のようだ。他人にどうにかしてもらおうと考えた事が甘かったのだ。自分の手元に来た2枚の写真を手に、これからを考えあぐねた。

 レティシアに会いたい、彼女の顔が見たい、そんな単純な感情がジェロームの心を締めつけはしたが、心のままに行動はできずにいた。昨日の昼にルイ・モーリスと会ってから一気に複雑になってきた問題に、恋うる心は押さえつけられる。昨日は仕事帰りに『銀の猫』に寄るつもりであったが、それすらもやめた。心に重いしこりを持ったまま、会うのは避けたかった。彼女に会う時は、彼女の事だけに心を砕きたかったのだ。
 先週末は、前日の店でのレティとの会話を反芻してこそばゆいような気持ちで過ごせていたと言うのに、今日はテーブルの上の2枚の写真を前にうなったり、ため息をついたりしている。
 そもそも隠し撮りのような写真だ。この写真だけでクラヴリー局長に不正を認めさせる事は無理だろう。こんな写真を撮っている行為自体が卑劣だと、非難するかもしれない。そして今後の仕事にも悪影響をもたらすのは確実だ。内部告発という手もあるが、モーリスの言う通り、証拠が足りない。かと言って、このまま見過ごし、賄賂の元にリナシメント・エネルギーに工業団地が決まるのは心情的に許せなかった。
 そう頭を悩ませていると、ベッドサイドの電話が鳴った。何の気なしに受話器を取ると「ボンジュー、レティです」と彼女の声が伝わってきた。耳の奥にさわやかな風が吹いたかのようだった。彼の心はスイッチを入れたように一気に切り替わる。
「ボンジュー、ジェロームです」
 互いの番号を交換したとはいえ、まさか彼女から電話がかかってくるとは思わなかった。不意打ちのような電話に、受話器を握る手は、うっすらと汗をかきはじめた。今、お電話大丈夫かしら? という問いに、ええ全然、暇していたところですと嘘をつく。
「ごめんなさい。ゆうべ、店においでなるかと思っていましたので、少し気になってお電話いたしましたの」
 そうか、2週連続で週末に顔を出していたというのに、映画の時に電話番号を交換してから店に来ないとなれば、それは気に掛かる事であろうと、彼女の言葉に納得した。個人的に仲良くなったとたんに店に来ないのでは、彼女としては問題だろう。
「すみません、昨夜は少し胃の調子が悪くて。あ、いえ、大した事はなくて、今はもう大丈夫です。そうだ、月曜には必ず行きますよ」
 あわてて、そんな言葉を返したりする。
「お体、無理なさらないでくださいね。でも来ていただけるのなら、うれしいですわ。お待ちしてます」
 レティの笑顔が想像できるような声に、ジェロームは、はい必ず、と再度口にした。
 受話器を置くと、華やいだ気持ちが戻ってきた。彼女の前では誠実な人間でありたい、そう思う心が彼を強くする。さんざん悩んだ結果ではあるが、ジェロームは無記名でクラヴリー局長に手紙を出す事に決めた。
『良心の元に、公務員の職務に励むべきです』とタイプした文面に写真のコピーを添える。これは恐喝ではない、忠告なんだと自分に言いながらもタイプライターのキーを打つ手は震えた。これでクラヴリー局長は業者との関わりに終止符をつけてくれるのではないか。封筒の宛名住所はモーリスから教えられた局長の自宅にする。自身の住まいからは離れた、人通りの多いシャンゼリゼ通りのポストに投函した。この作戦が上手くいく事を願った。月曜日は、少しは楽な気分でレティシアに会えるだろうと。
 封筒を飲み込んだ差し入れ口の金属が小さな音を立てる。ふと、以前に疑惑の会員制バーを記事にしようとして上からの圧力を受けて屈したのは、モーリス自身ではなかったのだろうかと思ってみた。
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