今日で、3回目のデートだった。少なくともピエトロは、そう思っていた。前回からは上映時間に合わせた待ち合わせになったので、昼食を共にする事が無くなった。その代わり、映画の後にカフェで映画の感想をおしゃべりできる。
「パート2、あれで終わりなの!? 中途半端じゃない。そりゃひと区切りはついてるけど、なんかモヤモヤするわ」
前回、ミレーヌはプリプリした顔で、ピエトロに喰ってかかった。
「まあまあ、つまり続きが見たいって事でしょ?」
「まあ、そうなるわね」
少しバツが悪そうに答える彼女が、可愛らしかった。
そして、やっと2週間が過ぎた。彼にとっては長い長い、2週間だった。その間の彼はと言えば、彼女とのおしゃべりの時間を思い出しては、会話を反芻した。彼女の声、彼女の表情を幾度も頭の中に繰り返して、胸をときめかせた。それはそれで至福の時間ではある。そんな夢うつつの様子の弟に兄は言う。
「なんだよ、もうキッスくらいしたのか?」
ピエトロは顔を真っ赤にして否定した。
「なんだ、まだか。いいか、女の子は男がキッスしてくれるのを待ってるんだぜ。そのへんの女心の機微ってヤツを読み取るのが、パリジャンってモンだろうが」
ウブな弟を前に、兄は得々と持論を語る。そんな兄に影響された訳では無いが、今日こそは、と思う。手を握ってみようと。できれば、今日は夕食を共にしたいと考えていた。
パート3になると観客は少なかった。少ない分、それぞれが真ん中付近の席を埋めていて、今日は左寄りの席にした。なるべく、他の客がいない場所にする。
今、自分の左の席にミレーヌがいる。映画が、終盤に向かった。彼女の右手は椅子の肘置きにある。ピエトロは勇気を出して、自分の左手を、彼女の手の上にそっと重ねてみた。
ミレーヌは、自分の右手に触れた他人の手に、驚いた。重ねられたピエトロの左手が、彼女の右手を軽く握る。映画は終盤、画面に集中していたい気持ちが強く、振り解いて文句を言うのは面倒に感じた。なるほど、男の子に手を触れられるのは、こういう感じなのかとは思った。
彼女は、彼の手を拒否しなかった。つまりこれは「はい」と言う事か、ピエトロは一気に体が熱くなる。ついにスクリーンに、エンドマークが表示された。
面白かった! ちゃんと話が繋がっていて、楽しめた、とミレーヌが満足した時に、ピエトロが視界を遮(さえぎ)り、自分の右肩をつかまれた。
彼は、映画を観ている彼女の邪魔はしたくなかった。エンドマークが出るまで、待っていたのだ。スタッフ名が流れるエンドロールを背景に、彼女の唇にそっとキッスをした。
ミレーヌは目を開けたまま、事態の収集を考える。これが、他人とのキッスか。自分の唇に触れる、暖かい他の皮膚を知った。ピエトロを甘く見ていた。こんな大胆な事をするとは思わなかった。別に、彼が嫌いなわけではなかった。映画オタクの面白い男の子、くらいで、それ以上の感情は無かった。たしかに3度も映画に付き合ってしまったが、それは自分が街に慣れていないのと、出かけるならなるべく複数で、とオルガに言われているからだ。
触れていたピエトロの唇が、離れた。短いキッスだった。エンドロールは、まだ流れている。ミレーヌは椅子から立ち上がり、足早に映画館を出る。
入り口を出たあたりで、何かが体にぶつかった。褐色の肌の子供だった。身長がミレーヌの半分ほどしかない小さな子は、無言で大通りと反対方向に走り去った。
「ミレーヌ!」
後から出てきたピエトロが驚いた。
「ごめん、と言うか、大丈夫?」
「別に。小さい子がぶつかってきただけ。痛くもないわ」
無言でいるのは大人げないと、会話くらいはできる。仏頂面ではあるが。
「そうじゃなくて、財布、ある?」
彼女は一瞬、その意味がわからなかった。次に自分のバッグの中を確認する。
「財布が無いわ!」
「スられたんだ! 今の子に!」
2人は子供の逃げた道を、走って追いかけた。ミレーヌは、今日はローヒールで良かった、と思いながら。しかし、子供は見つからなかった。
「くそ! 逃げられた」
ピエトロは、スリの子供にも、自分にも、怒りを覚えた。女の子をひとりにするから、こんな事になる。
「ちょっと待って、あれ」
ミレーヌは指差した。少し離れた道の端に、キャメル色の皮の財布が落ちている。
「あれ、私のよ」
拾い上げると、中身を調べる。
「変ね。大きな札は残ってるわ。小銭と20ユーロ札までが、無いわ。なぜかしら?」
「そりゃ、あんな小さな子が額面の大きな札を持ってたら、怪しまれるからじゃないかな。多分、貧困を抱えたアフリカ地域からの密入国者か、その子供だよ」
あの子供は、痩せていた。褐色の肌に、焦茶の強いウェーブが重なったボリュームのある髪だった。ぶつかった時に、一瞬、目が合った。丸い目がギロリと、こちらを睨んでいた。
「多分、10歳にもなってないよ、あの子。この辺は治安はいいと思ってたんだけどな。最近はそうでもないのか」
ため息をつきながら、ピエトロは善後策を考えていた。まずはごめんね、かな。しかし彼女は、
「密入国って?」
スリの話が続いて出る。それならそれで時間稼ぎになる。
「北アフリカから見れば、バルカン半島は目と鼻の先さ。まずスペインに密入国して、経済発展をしているフランスまで地続きで移動して来るんだよ。フランスまで来れば、どうにかなると思ってるんだろうけど、結局働く事もできず、ああいった犯罪に手を染める事になる」
「そう⋯⋯」
ミレーヌには、まだ小さい子供の、走り去る後ろ姿が目に残る。
「フランス政府だって、そういった連中を取り締まったりはしてるけど、イタチごっこ」
「取り締まりって、そういう人たちはどうなるの?」
うーん、と考えたピエトロは、
「まあ、禁固刑とか、隔離されて国外追放とかかな。そういう事に税金が使われるんだよ、釈然としないよね。フランスだって若者の失業率は高いのに。もっと自国民の事を考えてほしいよ」
素直に、そう答えた。
「パリだって、ああいう連中がたむろする、治安の悪い地区はあるからね。近寄りたくも無いよ。La caque sent toujours le hareng(ニシンの樽は、いつまでもニシン臭い)って、言うじゃない」
ミレーヌからスリ盗った腹立たしさで、口にしてみる。
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