『ニシンの樽は、いつまでもニシン臭い』、生まれ育ちが悪いと何かの拍子に表に現れるという、ことわざ。ミレーヌには、まるで自分の事を言われたように聞こえた。いくら普通のフリをしていても、お前は犯罪者の娘なのだ、と。
「ピエトロ、もう2度と、私に話しかけないで」
そう言うと、一気に走り出した。驚いた彼が追いかけたが、
「追うのは、やめて! 迷惑よ!」
そう叫んだ彼女の言葉に、脚が止まる。ピエトロは、自分がどうしていいのか、わからなかった。やっぱり、キスしたのがいけなかったんだろうか。
ミレーヌは、ひとしきり走って、疲れた。息を切らせて立ち止まり、歩き出す。ピエトロに腹を立てたのは、自分の勝手な思い込み、それはわかっている。
けれど、スリをしなければ生きていけない痩せた子供と、犯罪組織の娘として楽に暮らしている自分を比べれば、何が違うのだろうと思えた。冷たい風が、体を震わせる。もう10月も1週間を過ぎた。もうすぐ父との会食だろう。
帰りの地下鉄は、日曜の夕方なので、それなりに混んでいた。沈んだ感情で、ミレーヌは車内で吊革につかまる。しかし、あとひと駅という所で、彼女は自分の臀部に違和感を感じた。
何かが触れている。それは無機質な物体では無かった。今日もパンツスタイルではあったが、柔らかい布地の幅の広いワイドパンツだ。秋物ショートコートも羽織っていたが、その布地を通して、不快な他人の手のひらと指を感じた。気のせいではない、と確信する。
彼女は両足を少し開き、体勢が崩れないようにして、自分の両手を後ろに回す。そして自分の尻を触る手をつかんだ。こうするんだっけ、と護身術の講師が言っていた通りにする。講義内容では無かったが、痴漢遭遇時に彼女がやった事があると、楽しげに話していた。
「ぎゃっ」
男の悲鳴が聞こえた。ホームに着いた電車の入り口が開く。ミレーヌは、降ります、と行って人をかき分けて車内を後にした。後ろなど、見なかった。
「地下鉄で、痴漢に合ったわ。お尻、触られた。吐き気するほど腹が立ったから、手の小指、折ったわ。ほんと、簡単に折れるのね」
家に帰るなり、洗面所で手をぴかぴかに洗ってから、ミレーヌはオルガに報告する。ただでさえ気分の悪い今日の日に、不快な事が重なった。だがスリの子供の事は、言えなかった。
「え? なんて危ない事をするんですか。そういう男は、基本的に女性を見下しているんです。女に人権があるなんて思って無いんですよ。逆恨みされるかもしれません。そんな時は悲鳴でもあげれば護衛が守ってくれます!」
強い口調でオルガが、たしなめた。しかしその言葉に、ミレーヌは現実を知る。
「ちょっと待って。護衛って、何? 私には護衛が付いてるの?」
オルガは視線を外した。
「詳しくは知りませんが、外では護衛が付いていると聞いています。あなたに社会生活を送らせるために。よほどの事が無ければ、動かないそうです。別に何を束縛しているわけではありません。あなたの身に危険が無いならば、それでいいのです」
どこからか護衛が自分を見ている。それはオルガやマリエットと暮らすこの家と変わらなかった。むしろ、言葉を交わす事も無い、誰かだか知らない人間に監視されているのは、薄気味悪かった。
「夕食は、いらないわ」
オルガにそれだけ伝えると、自室へ階段を上がって行った。
「じゃあ、今日はここまで。ところで、なんだか今日は元気が無かった?」
ヴィクトルは、始めからミレーヌの様子が妙な事は気づいていた。授業始まりの軽口に乗ってこないし、先週は『ベルサイユのばら』の感想を延々と話していたのに、今日は必要最低限の質問しかしてこない。
「別に」
彼女からは、木で鼻をくくったような言葉しか、返らない。ちらりと横目で、聞いてみる。
「あー⋯⋯ボーイフレンドと喧嘩でもした?」
言われれば、そうなのかもしれなかった。しかしミレーヌにとっては、ピエトロがキスしてきた事など、今さらどうでもよかった。あんなの、ただの皮膚接触よ。あれ以降、教室で顔を合わせても無視していた。それよりも、スリの子の事、自分が籠の鳥である事の方が、よほど心に応えていた。
学校は、まだいい。にぎやかな10代の集まる空間は、現実をしばし忘れさせてくれる。だが、父の指示でこうして受けている授業は、その手の中にいる事を思い知らされる。
「ヴィクトルには関係ない事よ」
つっけんどんに、答える。
「ま、ま、ま」
ヴィクトルは両手を広げて、なだめるように話しかける。
「気分がクサクサする時は、街へ出かけて気分転換でもしたら? 明日なら蚤の市とか覗くと面白いよ。女友達と行ってみたら?」
蚤の市、の単語にミレーヌの心が反応した。
「⋯⋯そういえばオルガの付けてるバングル、蚤の市で衝動買いって言ってた」
その昔、オルガの左手首に見つけたバングルは、今でも彼女のアイテムだ。
「へえ? そうなんだ。衝動買いするタイプには見えないね、って言ったら、怒られるか」
ヴィクトルは、ハハッと笑った。
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