こぎれいな店は落ち着かないから入りたくない、と子供が言うので、蚤の市の客を目当てに開いていたカフェで、ローストビーフのサンドウィッチと飲み物をテイクアウトして、近くの公園のベンチに移動する。左端にヴィクトル、次にミレーヌ、そして子供が座った。
「改めて、お礼を言うよ、ありがとう」
ヴィクトルは子供に礼を言いながら、サンドウィッチと飲み物を渡す。
「わざと、あの男のバッグを引ったくろうとしたよね? 普通、キミのような子供は若い男のバッグなんか、引ったくらない。成功率が低すぎるからね」
まあな、と言って子供は受け取ったサンドウィッチの包みを開け始めた。
「あの騒ぎで、ボクはミレーヌに気がついたのさ。昨日、彼女に蚤の市を勧めてみたついでに、自分も行こうかと思って、来てた。彼女がひとりだとは思わなかったけど」
「うまいな! これ」
ヴィクトルの話など上の空で、サンドウィッチを頬ばった子供が声を上げた。丸い目、丸い鼻、そうやって笑顔で美味しそうに物を食べる姿は、街でも見かける普通のアフリカ系の子供だった。そんな子供を見て、ヴィクトルも笑みを浮かべ、自分のコーラのストローをくわえた。
「あの男、前の日曜に地下鉄で私に痴漢したやつよ。ちょうどムシャクシャしてたから、右手の小指を折ってやったの。逆恨みされたわ」
ヴィクトルは目を丸くして、ミレーヌを見つめる。
「そんな事、したの? また大胆な⋯⋯」
「へえ、やるもんだな、ネエちゃん」
子供は、変に関心した。
「ねえ、あなた、痴漢の前に、映画館の前で私の財布をスった子でしょ? あ、逃げないでね。確認したいだけ」
ミレーヌはそう言うと、子供が逃げ出さないように、その腕をつかんだ。つかんだ腕は想像通りに細く、骨張っていた。
「おいおい、それも聞いてないよ」
ヴィクトルは、あきれ顔をする。大の男連れでは逃げるのを無理と判断したのか、子供はぼそりと答えた。
「⋯⋯まあ、そうだよ」
ミレーヌは彼の腕を離した。
「仕事をする時は、相手の顔を覚えるようにしてる。どこかでまた会っちまったら、ヤバいからな。そんで今日も蚤の市に仕事に来たけどよ、ネエちゃんが知ってる顔だったから場所を変えようと思ったのさ」
子供は、ずずっ、とコーラのストローを吸い上げた。
「そしたら様子が変じゃんか。ネエちゃんの顔は引きつってるし、なんか、ヤローの左腕は右に曲げてるし。ちょうど左にバッグの膨らみわかるから、それ引っ張ればいいかと思った」
「なんで、私を助けたの?」
ミレーヌは膝の上にサンドウィッチを広げていたが、まだ口にしていない。奇妙な偶然に答えが欲しかった。
「なんつーか、無理矢理、女をどうこうするのって、嫌(きれ)ぇなんだよ。そんなの、男のする事じゃねぇだろ」
そう言うと、子供はまたサンドウィッチにかぶりついた。スリを生業(なりわい)としていても、彼なりの倫理があるようだ。
「まあ、オレも仕事はするけどよ。親もいねぇし、子供ができる事なんか、こんなもんだろ」
食べながら話す子供は、ピエトロの言ってたような境遇なのだろうと思えた。
「うん、確かにうまいね、このローストビーフサンド。ミレーヌもお食べよ」
ヴィクトルが、明るく声を出す。多分それは、子供の気持ちを察しての事だった。ミレーヌもサンドウィッチを口にする。
「ほんと、おいしいわ」
早々に食べ終わった子供は、包み紙をぐしゃぐしゃと丸めると、立ち上がってそれをベンチに置いた。モシャモシャした髪を掻きながら、
「まあ、気をつけろよ、ネエちゃん。じゃあな」
そう言って、背を向けた。
「ありがとう。私はミレーヌよ。あなたは?」
「バカヤロウ! 名前を教えるスリがいるか」
振り向いて答えた顔は、ほんのり赤らんでいるように見える。彼はそのまま、小走りにどこかへ消えた。
「⋯⋯警察には、届けなくていいの? あの子じゃなくて、あの男の事」
ヴィクトルが現実に引き戻した。
「いらないわ。だってそうすると、あの子も巻き込んでしまうし」
警察とは関わりたくない境遇である事は、当然言えない。ヴィクトルは彼女の返事に納得したようで、
「じゃあ、しばらくは絶対にひとりで出歩かない事、これは絶対だよ。地下鉄も乗っちゃダメ。あの男がどうキミを見ていたのかわからないけど、ストーカーになる可能性だってある。いや、もちろん今日の事であきらめる可能性もあるけどね。ああ派手にやらかしたんじゃ」
ミレーヌのその身を守るように、しかし心配させすぎないように、言い聞かせる。
「そうね、そうするわ」
そう答えて、サンドウィッチを頬ばった。咀嚼しながら思う事、食べ終わるとヴィクトルに質問する。
「ねえ、あの子を普通の子供にする事はできないの?」
「多分、密入国の、その子供か孫か、そのまた後か。収容施設に入れられて、強制送還になるのかな。フランス国民じゃなければ、孤児の養育施設には入れないよ」
ピエトロの答えと同じだった。
「それに、彼ひとりじゃないよ。そんな子供は。結局、貧困が犯罪に繋がるんだ。やりきれないよね、あんなに小さいのに。法律では、国民じゃない彼らが保護される事が無いんだ」
寂しげに言うヴィクトルの言葉に、ミレーヌはうなづいた。
「残念ながら、ボクは政治家になる気はないし、大々的な慈善事業ができる大金持ちになれる可能性も、低い。せいぜい、マシな政治家に投票するくらいさ。現実的に考えればね」
確かに、そうだった。あの子ひとりを哀れんでみたところで、そんな子供たちは大勢いるに違いなかった。
「さて、送るよ。ボクはバイクだけど、さすがにヘルメットはひとつしかない。違反切符は切られたくないから、バイクは置いといて、タクシーで帰ろう」
「本当に、今日はありがとう」
「いやいや、高額アルバイト先のお嬢様だからね」
ハハッ、とヴィクトルが笑ったのは、多分、照れ隠しだと思った。ミレーヌは「大切な友人」と彼が子供に言っていたセリフを思い返していた。そんな言葉で言われた事は初めてであったし、彼にとって自分が好ましい存在である事が、嬉しさを覚えた。
彼の唇が触れた自分の額、母以外の人にキスされたのは、ピエトロとの『皮膚接触』をカウントしないならば、初めてと言えた。
そして、さすがに今日の事はオルガに報告しないわけにはいかなかった。その日は夕方6時にはオルガは帰ってきた。話を聞いた彼女は、
「なんて危ない! ああ、本当に何も無くて良かった。しかもミレーヌ、あなた先週のスリの事は話してませんでしたよね」
そう安心したと共に、じろりとミレーヌを睨んだ。
「えっと、それは子供だったし、わざわざ言わなくてもいいかなと。痴漢の方がよっぽど腹が立ったし」
護衛が付いているのにも腹が立ったし、の言葉は飲み込んだ。今日、現れなかったのはヴィクトルが来たからだろう。
「もう、本当に気をつけてくださいよ。ムシュー・クーロンにお礼の電話をしなくては。もうお帰りになってるかしら」
オルガは手帳を開くと、電話機のボタンを押し始めた。
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