3日後、水曜日。いつものように朝食を食べた。焼き立てのクロワッサンはミレーヌの好物である。朝食はバゲットを食べる家庭が多いと聞くが ——それは主に単価の面であったが—— 彼女はカリッとした歯触りの、幾重にも重なった生地が好きだった。
この家から車で5分程度の所に、宅配専門のパン屋がある。月ごとの契約で、朝から焼き立てのパンを届けてくれる。配送込みだから値段はそれなりになるが、高級住宅地の16区ならではと言えた。ミレーヌがパリに来てから、好んで食べているクロワッサンもその店の物である。
クロワッサンを2つ、ミルクを1杯、最後にコーヒー。ミレーヌが朝食を済ませた事を確認すると、オルガがテーブルに2つ折りの新聞を乗せた。
「パン屋から新聞を渡されました」
一瞬、何の事だろうと思った。宅配パン屋がどうして新聞まで届けるのか。
「この家でとってる新聞と同じですが、渡された物には印がありました。赤丸の記事を見てください。見覚えがありますか?」
社会面の下の方、小さなベタ記事に赤いサインペンで丸く囲った記事があった。
『⋯⋯32歳は一昨夜、泥酔した状態でサン・ドニ運河に落ちたらしく、昨日遺体で発見された。警察の調べでは周囲のバーで飲んだ帰りに、誤って運河に落ちたらしいとして、事故として⋯⋯』
小さな顔写真だが、その風貌に見覚えがある。朝食を終えて胃袋に集まっていたはずの血は、一気に心臓に集まり、体に寒気を感じさせた。
「これ、どういう意味? あの痴漢に似てる、と思う。どうしてパン屋?」
ミレーヌは、青ざめた顔でオルガに詰め寄る。
「あのパン屋が、警護の前線基地です。言う必要が無いので黙っていましたが。お父様への報告書などは、パン屋を通して渡しています。この赤丸の記事は、安心しろというメッセージです」
それはつまり『あの男を殺した』という事だろう。
近所の宅配専門パン屋、それが警護の前線基地。なんて笑える舞台装置だろうか、ミレーヌは自分の立場を呪いたくなる。
「これで、変な男を気にせずに生活できます。子供のスリは見逃しても、確実にあなたに危害を加えるような男は、絶対に許されません」
オルガの立場はわかっていても、ヒステリックに叫び出したくなる。しかし叫び出さずに、押し殺した声で、尋ねる。
「だからって、殺してもいいの?」
オルガはミレーヌに顔を近づけて、強い眼差しで言う。
「これでいいんです。もし、その場から拉致されて、性被害にあったとしたら、どうします? 相手はそのつもりですよ。性犯罪者は、行動がエスカレートしていくんです」
これでいい、と言ったオルガに、ネクライマーの顔を見た。
「今日は、学校休む」
それだけ言って、階段を駆け上がった。明日の朝から、クロワッサンを見るたびに思い出しそうだ。
あの男が、死んだ。それは自分に関わったせいで。じゃあ、どうすれば良かった? すぐに答えは出ない。ミレーヌは男の死を、現実に表れた組織の力として認識した事が怖かった。
一昨日に泥酔して運河に落ちた、と言う事は、月曜日の内に、あの男を特定したというわけだ。蚤の市の時、警護は先回りして、駐車してあるいくつかの車のナンバーを控えていたのだろうか。
自分が普通の少女で、あの男の毒牙にかかっていたとしたら、どうだろうかと考える。
殺したい、と思うに違いない。八つ裂きにして殺したい、そう考えるだろう。考えるだけで実行ができないだけで。それが未遂であっても、警護の人間達は、八つ裂きでなく、事故に見せかけて溺死させただけの事なのだ。
ミレーヌに、男の死を悼む気持ちは起きなかった。ただただ、父の力の前に恐怖があった。
次の土曜日、赤丸のついていない方の新聞を、ヴィクトルに見せた。知らせないわけにはいかなかった。ミレーヌにストーカーがいるかもしれないと心配しているのだから。
「新聞、読んでて気がついたの。ほらここ、あの男よ」
記事を読んだヴィクトルは、へぇーと声を上げる。
「この男に、間違い無い?」
聞かれたミレーヌは、
「十中八九、間違い無いわ。私、顔を覚えたもの」
と答える。警護の者たちが見つけたのだから、本音を言えば100%だったが。
「なんと言うか、人の死を喜んじゃいけないんだろうけど、これで安心できるよ。できれば溺死する前にぶん殴りたかったけどね。ああ、エッシャーの図録が殴ったとは言えるか」
「それ、喜んでるわよ」
無邪気に言えるヴィクトルを羨ましく思った。
「だって、あの状況だよ。ぶん殴る程度じゃ済まないさ。泥酔して溺死? ハッ、ざまあみろってんだ。自業自得さ」
ヴィクトルには珍しく、怒りを表に出していた。
「まあ、どうでもいい男は忘れよう、さ、授業、授業」
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