翌日は、ヴィクトルの提案通りに蚤の市に行く事にした。ミレーヌは行った事が無いので興味が湧いたというのもある。だが気分的に友人達とは行く気になれなかった。ひとりでブラついてみようと思う。どうせ護衛はいるんだし、とも考えた。
護衛は何人なんだろうか、ひとり? それとも2人? オルガに聞いた所で、はぐらかされそうだ。ミレーヌはオルガを庇護者として慕っていたが、オルガには立場がある。どうしても譲れない線が1本あって、それゆえに話さない事があるのは仕方無かった。それはミレーヌにもわかっている。わかっているからこそ、寂しさを感じるのだ。その線が消える事は無いのだから。
蚤の市は午前中なので、朝食を食べてからすぐに出かける。今日はスられたりしないように、バッグは首から掛けて、体の前側にくるようにしコートを羽織った。
初めて来た蚤の市は、道路側にそれぞれ店主が車を止めて、街路樹のある歩道に様々な種類を扱う露店が並んでいた。
簡易に置かれたテーブルの上にしゃれたコーヒーカップや皿の並ぶ店、かわいい模様の鍋やポット、パリらしく美術の関連書籍が並んでいたり、複製画なのか自分で描いたのかはわからない絵画が所狭しと立てかけられたりする。レトロなクラシックカメラがいくつも置かれたテーブルも、中東アジアのカーペットや、手芸用品と古い裁縫道具の店もあった。特定の物に限らず、雑多な物を置いてある店もある。
そして白い布を被せたテーブルには可愛らしい小物がたくさん置かれ、アクセサリーが、いくつも見られた。こういう所でオルガはバングルを見つけたのね、とミレーヌは少しおかしかった。
様々な店に、そこに集う人々。商品の説明や値下げ交渉、活気のある空気に、見知らぬ人々の生活が感じられる。
ひとしきり露店を覗きながら歩いて行くと、もうじきに露店の終わりが見えた。と、その時ミレーヌの左腕を、後ろから誰かがつかんだ。驚いてつかまれた手首を見ると、小指に包帯を巻いた右手が目に入る。添え木をしているのか、包帯が膨らんでいる。
すぐに顔を上げて見たその手の持ち主は、短髪の黒髪にキャップ帽を被ったサングラスの男。同時にその男が彼女の左側に付き、男のコートの内側から、ミレーヌの左の脇腹に硬い物が押しつけられる。
「静かにしろ、これは銃だ。そのまま歩け」
男は右手でミレーヌの腕をつかみながら、左手を曲げて銃を押しつけているらしかった。着ているコートの左腕は袖を通していないようだ。そして右手の小指の包帯の意味は、聞く必要が無かった。男はミレーヌの左手首をつかんでいた右手を外し、今度は恋人のように彼女の右肩にその手を掛ける。
「この前のお礼がしたいんだよ」
興奮しているのか、男の声はかすかに震えていた。彼女はゆっくりと歩き、男もそれに合わせて歩く。小声で男が言う。
「蚤の市を過ぎて、歩くんだ。30メートル先の青い車まで歩け」
車に連れ込むつもりか、ミレーヌは考える。護衛は異変に気づいているはずだ。ただ、今は私が危ないから手が出せないのだろう。この男が本物の銃を持っている可能性は、銃規制のあるこの国では低い。しかし、まったくのゼロとも言えなかった。
そして男が銃の安全装置を外している可能性、これは少ないと思えた。脅すのが目的だから、間違って発砲してしまう事は避けたいだろう。この男の目的は殺害ではなく、下卑た行為と想像できる。次のアクションをどうするか、そう思った時、視界に褐色の肌の子供が入った。
見覚えのある子供が前から走ってくる。すれ違いざまに、男のコートの左の内側に手を伸ばし、肩から下げているショルダーバッグの持ち手を引っ張った。
「何しやがる、クソガキ!」
急にバッグを引っ張られた男は、銃を持った左腕も引かれ、ミレーヌの肩を抱いた右手も離れた。彼女は手刀で、男の左手の甲を叩く。拳銃がガシャンと音を立てて石畳の歩道に落ちる。子供がそれを足で蹴り、銃は離れた所に滑って行った。
「こいつ、痴漢よ!」
男から離れたミレーヌは男を指差し、叫んだ。叫び終わると同時に、男の顔目掛けてどこからか本が投げられる。がっ、と男のうめき声と共に、サングラスもツルが壊れたのか、地面に落ちた。30歳前後、しっかりした黒くて濃い眉、細めのブラウンの目、幅のある鼻、この顔をよく覚えておこう、彼女は記憶した。そして、
「キサマ、何してる!」
聴き慣れた、しかし聴き慣れない怒りを持った声が、近くでした。男は慌てて車の方へ逃げ、途中でキャップ帽は外れて落ちたが、車に逃げ込んだ。追いかけたヴィクトルは間に合わず、目の前で急発進で走り去る車に荒い息を吐いていた。
突然起こった捕物帳に、周囲の人々が彼女に声を掛ける。大丈夫? 怪我してない? 怖かったわね、人々の善意に、ミレーヌは「ありがとう。大丈夫です」と応える。
戻ってきたヴィクトルは、周囲の人に、
「ボクの連れです、ありがとうございます」
と言うと、人の輪も離れた。
「大丈夫か、ミレーヌ。怖かったろ、怪我はしてない?」
心配が顔中に表れていた。
「平気。腕をつかまれたり、肩を抱かれたのが気持ち悪かったけど。ああ、気持ち悪い!」
警護がいると思っていたから、怖さは薄かった。ただ肩に男の手の感触が残り、ひたすら不快だった。左手で、自分の右肩を払うそぶりをしてみせる。そんな顔をしているミレーヌを、ヴィクトルの腕が包んだ。彼女の右肩も、その手で包み込む。
「良かった、何も無くて。もう大丈夫だよ。今日はボクが送って行くよ」
クラスでも一番に背の高い部類のミレーヌは、ローヒールでもヴィクトルと身長差は大きくなかった。彼の左肩に顎を乗せていると、その体温が自分の身体の中に流れ込んで来るように感じた。
「ねえ。こういう時、男は女を安心させるためにキッスするもんじゃないの?」
そんな言葉が口を出る。
ヴィクトルは、ぷっ、と笑うと抱きしめた腕を緩め、ミレーヌの両腕に手を掛け、その腕を軽く前に伸ばし、互いの顔を見合わせた。
「誠に申しわけない。ボクはお嬢ちゃんには手を出さないのさ。そんな軽口言えるなら、大丈夫」
そう言って、彼女の額に軽く唇を付けた。
「これが模範的な大人の行動ってヤツ」
いつもの家庭教師の顔に戻っていた。彼は地面に落ちた本を拾い上げる。
「あー、せっかく買った展覧会の図録なのに。つい投げちゃったよ」
厚みはあるが、図録にしては変形の、四角い小さめの本を手の平で軽く叩いて汚れが無いか確認する。図録は、騙し絵や、建築不可能な構造物を表現した独創的な版画家、M.C.エッシャーだ。そういうのが好きなのか、とミレーヌは眺めた。
「なんだよ、これオモチャじゃねぇか」
下町なまりの子供の声がした。痴漢の男が残していった拳銃を手にしていた。ヴィクトルは、褐色の肌の子供に近づくと、
「サバイバルゲームで使うやつだね。ボクも友達と遊んだ事があるよ。でもこれは18歳未満は使用禁止だから、ボクが預かるよ」
そう言って自分の手のひらを子供の前に差し出した。子供は仕方なしに無言で、それを渡す。ヴィクトルは腰を屈めて、子供の目線に合わせて言った。
「ところでキミに、ランチをご馳走したいんだ。いいかな?」
「オレに?」
「キミのお陰で、大切な友人の危機に気がつけた。ありがとう。お礼がしたいんだよ」
柔らかい物腰のヴィクトルに警戒しながらも、ランチのご馳走という単語に惹かれたのか、
「まあ、いいけどよ」
と子供が答えた。ミレーヌも、彼と話がしたかった。
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