おお、可哀想なミレーヌ。
ワシの可愛い娘よ。
さぞかし怖かったろう、つらかったろう。
ワシの娘であるために、危ない事に巻き込まれる。
まだしばらくは、隠しておく方が良い。
父がフューラーである事は忘れるのだ。
お前の父は貿易商で、死んでしまった。
お前の母親はネクライムに縁があった。
そのために、お前は英才教育で幹部候補生として育てられたのだ。
お前はずいぶん悩んだようだが、ネクライムに来た。
ワシが父である事は忘れるのだ。
いつかまたワシが、父として呼びかけるまで。
フューラーが父である事は、忘れるのだ。
金の小箱に入れて、心の奥底に沈めておけ。
自分の過去を詮索するな、よいな。
よいな、ミレーヌ⋯⋯
「ミレーヌ!」
誰かが、自分の名を呼んだ。まとまらない思考で、ぼんやりとしていた意識が、急に現実に戻される。脇に抱えた書類ファイルを、落としそうになった。
「あ、申し訳ありません、フューラー様」
フューラーは、満足げな顔をした。ミレーヌは恐縮して、下を向いている。
「まあ良い。これからは、しばらくレオナルドの元で秘書として働け。行け」
それだけ言うと、手で下がるように合図する。
「ありがとう存じます。お力になれるよう、努力いたします」
ミレーヌは深くお辞儀をすると、貴賓室を出た。ふぅ、と息をつく。何をぼんやりしていたのだろう。なんだか頭の奥が痛い、鎮痛剤を飲もうか。
彼女は犯罪帝国ネクライムのヨーロッパ支部にいた。人里離れた山奥にあるその支部は、周囲の岩肌が露出した中に、ところどころ神殿風の装飾の建築物が見え隠れする。いっそ、もっと山のように隠してしまえばいいと思うが、自分の趣味を出したい主人の意匠のようだ。
昨夜ここに来て、個室を与えられた。今日はフューラー総統に謁見して、総統自らのご命令をいただいた。明日からが本番の仕事だ。自室に戻ろうとすると、少し離れた廊下に声が聞こえる。
「バカ野郎! これじゃないんだ! 横にあった黒い箱のほうだ!」
怒鳴っている男はツナギの作業服を着ている。壁に取り付けられた機材の蓋が開いていた。足元に青い工具箱が置いてある。修理をしている施設課の者のようだ。怒鳴られているのは、まだ幼いとも言える、ツナギ姿の小さな少年だ。
褐色の肌にモシャモシャとした焦茶の髪、上司の雷に慣れていると見えて、うつむいて、雷が通り過ぎるのを待っているような風情が感じられた。
「早く、持って来い!」
「へいっ! ただ今、持ってきやす!」
少年は大きく答えると、走って遠ざかって行く。ミレーヌは彼の姿と、その声に覚えがある。まだ変声期前の、下町なまりのアクセント。ピアノをやっていたせいか、音の記憶には自信がある。あの子も、ここに辿り着いてしまったのかと思う心と、無事でいてくれた事に安堵する。厳冬の時期には、凍死するホームレスのニュースは珍しくも無いのだから。
「今の子は?」
怒鳴っていた中年男に尋ねてみる。男は驚いて、直立の姿勢になった。若い女が来たこの廊下の先は、貴賓室に続いている。その部屋を使う者は、ただひとり。ここは年令は関係ない、実力の世界だ。あの部屋に出入りしているとなれば、若くても、自分より役職が上なのは、明らかだ。
「ハイっ! 少し前に末端から入った新入りです! 今は電気関係の仕事を覚えさせております!」
粗相をしないように、やたら元気な声で答えた。
「あの子の名前、教えてくれる?」
「あいつは、ジタンダ・フンダです!」
それを聞くと、ミレーヌは小さく笑った。
「ありがとう。がんばってね」
男に手をひらひらさせて、廊下を歩き出した。ジタンダ・フンダ、その名を覚えておこう。
自室に戻ると、書類ファイルを開いて、今後の自分の行動を確認した。鏡台の前に座り、化粧を直す。鏡の中のブロンドが気になった。
「なんかブロンドで情報が流れちゃったし、髪も痛むから、他の色に染め直そうかな。あとは、邪魔になるからアップにまとめるのも、いいかも」
髪を、頭の後ろでクルクルとまとめて、ヘアピンを刺した。
バングルは、手首には少し隙間が大きい。これは手首というより腕用なのでは。そんなサイズを選んだ弟に、オルガは微笑んでいたのかも。バングルを二の腕まで上げてみると、ちょうどだった。服に隠れてしまうな、と思う。
「刺激的な人生、生きてみましょ」
鏡の中の自分に、微笑んだ。
「なんだと! 研究所で爆発だと!」
上司のレオナルドの声が司令室に響いた。電話の受話器を握った、18世紀の貴族趣味のこの男は、頭の白髪のカツラをずらさんばかりに、研究所からの緊急電話を受けて椅子から立ち上がっていた。
「そうか、それで済んだか。復旧を急げ」
受話器を置くと、どっかと椅子に座り、ふう、と大きな息を吐く。
「お茶をどうぞ」
上司の前に、セーブルのカップに入れた紅茶を置いたのは、ミレーヌだった。ヨーロッパ支部長の彼の下に付いて、2年が過ぎていた。髪は栗色に変わっていた。
レオナルド自身は名前が示す通りイタリア系フランス人だったが、自分の中の貴族の血を誇りにしており、貴族文化華やかりし頃の18世紀を愛していた。
レオナルドの近世貴族趣味に合わせて1番の腹心の男は同じように時代がかったロココ調の服装とカツラを余儀なくされている。支給されるからいいようなものの、自費だったら転属願いを出しているかもしれない。さりとて秘書のミレーヌもそうかと言えば、さすがにそれは難しい。マリー・アントワネットのようなドレスを着ていたのでは、仕事にならない。第一、準備するまでの時間がかかり過ぎる。
簡単に着られるロココより後の、エンパイア調の服になった。フランス革命以降のスタイルだが、ハイ・ウエストの足首まで細やかなヒダのすとんとしたドレスは、ローマ神話の女神のようでもあり、時代背景を考えなければ、その姿はレオナルドの目を十分に満足させた。左の二の腕はバングルで飾られている。
「ああ、すまんな。後で研究所から事故のデータが送られてくる。プリントアウトして、持ってきてくれ」
承知いたしました、と答えて自分の席に戻る。研究所の事故、聞きたい単語ではなかった。その場所に行った事はない。ヨーロッパ支部の研究所が、大きなプロジェクトを抱えているのは知っている。どれほどの技術者や研究者がいるのか、いくつのチームに分かれているのか、その情報にアクセスする事は彼女には許可されていない。
翌日に、暫定の報告書が上がってきた。負傷者のリストと、事故時の写真だ。
『死者:2名 Dr.マリウス・シュタイン、助手ヴィクトル・ワトー 負傷者:3名⋯⋯』
見つめた文字が揺らいで見える。ミレーヌは奥歯を噛みしめて、耐えた。
「暫定の報告書が来ました。プリントアウトはこちらです」
彼女は、レオナルドに資料を渡し、席に戻る。
「くぅぅぅ! 死者2名だと! ドクターと助手、なんとういう損失だ。また開発が遅れる」
レオナルドは電話を取り、研究所を呼び出す。
「ああ、受け取った。事故の原因を詳しく調査しろ。チーム編成をやり直して、早期復旧を目指せ。何としてもイクシオン・ファイルを完成させるのだ!」
上司の大声を背景に、ミレーヌは化粧室に立った。
2度と彼に会うつもりは無かった。自分のために姉との時間を持てず、そして組織に入り、自分を守るために姉は死んだ。そんな彼に合わせる顔など、あるはずも無かった。彼女は、自分で心にケリをつけ、別れの言葉を口にした。
「ずるいわ、ヴィクトル。私が先に部屋を出て行ったお返しなの? こんなに早くオルガの元に行っちゃうの?」
洗面台に両手をつき、鏡の中のバングルに目を向ける。ぽたぽたと涙が落ちる。
落ちる涙は、過ぎた時を思い出させた。時は戻らない。思い出して、どうする。彼女は大きく息を吸って瞼を閉じ、涙を止める。
目を開けると、鏡の中の顔は、マスカラが目の下に黒く滲んで、つたった涙が、まだらにファンデーションを落としていた。
ティシュで鼻をかみ、ポーチから携帯用の化粧落としを出して、顔をきれいに拭く。コンパクトを出して丁寧に化粧を直し、マスカラを塗り、頬紅を差し、口紅も引き直す。
深呼吸を、した。
「これが人生ね」
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