穴の中に置かれた棺の上、ミレーヌとヴィクトルが葬儀屋が用意したピンクの薔薇の花びらを散らした。さようなら、オルガ。今までありがとう。それを言葉にする事なく、ひらひらと、花びらだけが舞って、落ちた。
教会で見たオルガの亡骸は、きれいに整えられていた。いつも後頭部でまとめられていた栗色の髪は下されて、彼女の顔の周りにゆるいウェーブを描いていた。ミレーヌには、ぼんやりとした遠い記憶の母と重なる。葬儀は花を散らした2人きりだ。
ネクライム所有の葬儀屋の男達によって、穴の中に土が落とされていく。見える棺の面積は小さくなり、それは土に埋まり、やがて地面が盛り上がる程度に穴は埋まった。作業を終えた男達は、墓とヴィクトルに軽く黙礼をし、去った。
ミレーヌは、白百合の花束を置く。
「教えてくれて、ありがとう。オルガに別れが言えたわ」
あれから3日が過ぎて、7月17日になっていた。彼女はホテルに匿われ、その間にサロンでの状況を尋ねるヴィクトルからの電話があり、なるべく詳細に答えた後、最後に葬儀の日程と場所が伝えられた。
「オルガは、心筋梗塞で亡くなった。組織の息のかかった医者が死亡診断書を書いたよ」
あの襲撃者達の事は、聞く必要が無かった。きっとどこかの山の土の中、あるいはセーヌの川底に沈んでいるに違いない。
葬儀のせいか、ヴィクトルは肩まで伸びている髪をオールバックにして後ろでひとつにまとめ、黒い髪ゴムで結んでいる。そうして露わになったその顔は、輪郭を含めて、オルガの面影があった。今まで、どうして気づかなかったのかと、ミレーヌは自分の観察眼の甘さを後悔する。彼の独特なキャラクターに惑わされていたとはいえ、もっと早くに気づくべきだった。
「あなたに、聞きたい事がたくさんあるの。後でアンジャン・レ・バンのヌーボー・スィエクル・ホテルの0722へ来て」
わかった、と答えるヴィクトルを残して、運転手の待つ車に戻った。
夏の陽は長い。夜の時間が来ても、日没はまだ遠い。パリの北、車で30分程度の、カジノと温泉のある町、アンジャン・レ・バン。
人口1万人しかいない小さな町だが、フランス1の売り上げを誇るカジノのお陰で、ホテルが建ち並び、ギャンブルか保養かあるいはその両方で、フランス人や海外からの観光客で賑わっている。
そんな町にふさわしいホテルの一室、エレガントな内装だが、平均的な作りのツインルームだった。外は明るいがホテルの部屋は、カーテンが閉じられていた。
「カーテンは開けないように言われているの。ここはネクライムの持ってるホテルだそうよ。表向きは違うだろうけど。カジノもそうかは、知らない」
そう言って、ミレーヌはヴィクトルを迎える。
「まあ、ボクも組織の全体像なんて、知らないよ」
彼は葬儀の黒スーツからTシャツにジーンズ、デニムジャンパーに着替えてきた。髪も、いつも通りに戻っている。墓地の時よりは、少し焦燥の表情がやわらいだ。
「目立たないように、スィートルームは避けたみたいよ」
ミレーヌはベッドの脇に置かれた椅子に座り、小さなテーブルを挟んだ向かいの椅子を彼に勧めた。
彼はテーブルに視線を落として、言う。
「何から、話そうか」
「あなたと、オルガの事」
ネクライマーとしてのヴィクトルに愕然としたが、それと同等の驚きが、オルガと姉弟だった事だ。
「そうだね。オルガはボクの10歳違いの姉さ。ボクらの父親はロシア人で、出稼ぎでパリに来てた。母と知り合い、結婚し、子供が2人生まれた。けれど結局離婚した。ボクが小さい頃なんで、父親の記憶はぼんやりとしか、無いんだ」
ヴィクトルは視線を上げて、話し始める。
「母はホテルの客室係をして、ボクらを育てた。でもボクが11の時、病気で、あっけなく死んだ。ロクな蓄えは無かった。両親が結婚する時、ひどく反対されて駆け落ち同然みたいで、頼れる親戚も無かった。離婚した父親は、どこにいるかも知らないしね。オルガは大学を辞めて働いて、ボクを育ててくれた。ボクも自分で料理を作ってみたりもしたよ」
そう言うと、寂しげなグレーの瞳で彼は微笑んだ。きっと、幸せな子供の頃の彼はブロンドの髪をしていたのだろう。ミレーヌは過ぎた日の彼の言葉を思い出した。そんな過去を懐かしんで髪を染めているのかもしれない。
「オルガも最初は昼間、飲食店で働いてた。でも不景気になり店が潰れて⋯⋯ナイトクラブで働くようになった。くやしかったよ、何もできない幼い自分が。オルガに苦労させるばかりの、自分が」
ごめん、とヴィクトルは言葉を切った。
「酒はないかな。シラフで話すのは、少しきつい」
「部屋のミニ・バーがあるわ。でもあなたバイクじゃないの?」
ミレーヌは、小さな冷蔵庫の上の棚を指差した。小さなボトルの酒が何本か、置いてある。
「今日は電車。帰りに飲もうと思ってたから」
彼は立ち上がり、その中からラムを選んで備え付けのグラスに注いだ。小さな瓶は、すぐに空になった。
「キミは?」
ヴィクトルが尋ねると、ミレーヌは自分で冷蔵庫を開けて、ジンジャーエールの缶を取り出しした。彼が「ボクも」と手を出した。彼は酒を注いだグラスにそれを足した。
ミレーヌはジンジャーエールのグラスをテーブルに置く。ラム・バックとなったグラスを手に椅子に戻ったヴィクトルは、ひと口飲むと、ため息を吐いた。
「1年くらいした頃だったかな、状況が変わった。オルガが夜の仕事を辞めて、女の子の世話をする仕事に就く事になったと言った。店の客の紹介と聞いた。お金持ちのお嬢さんで、父親しかいなくて、仕事でほとんど家を空けているから、住み込みで面倒をみると」
つまり、その少女が自分だったわけだ。ミレーヌは、心にキリキリと痛みを感じた。
「ボクは喜んだよ。ナイトクラブで働くオルガは、幸せそうには見えなかったから。⋯⋯だけど住み込みだから、休み以外は家には帰れない。ボクは全寮制の私立の中学校に移った。パリから電車で1時間くらいかな。それが可能な報酬だと言っていた。寮の同室の奴が、日本のマンガを貸してくれたよ。マンガに熱中して日本語を独学しだしたのは、その頃。勉強もしたけど、時間が余ってたからね」
グラスを口に運ぶ彼は、ふっ、と軽く笑う。
「この国の学校は休みが多いんだ。2週間の、諸聖人の祝日、クリスマス休暇、冬休み、イースター、そして8週間の夏休み。よその国は、こんな休みばかりじゃ無いんだってね。休暇になるとボクはパリに戻ってきて、週に1度、オルガが帰ってくるのを待つのさ。簡単な料理なんか、作ってね」
週に1度しか会えない姉を待つヴィクトル少年は、どんな気持ちだったのだろうと、ミレーヌは胸が苦しくなる。
「オルガに手紙を書く時は、住所は郵便局の私書箱宛なんだ。仕事先の住所は教えてくれなかったよ。プライベートと仕事は分けなきゃいけないって言われてたけど、あの家の住所を教えたくなかったんだろうね。15から、パリに戻って、公立の高校へ通った。もう、自分の事はできるだろ」
彼は、またグラスに口を付けた。きっと酒に強いのだろうと思えた。オルガと同じね、とミレーヌは彼女の面影を弟に見る。
「バカンスの時だと2週間、会えなかったわよね。⋯⋯私が、あなたからオルガを奪っていたのね」
動物園、水族館、博物館、美術館、パリ市内、バカンスの南仏、ミレーヌはオルガと出かけた記憶が蘇る。小さい頃は手を繋いでいた、偽りの叔母と姪。姉のように、母のように。あの時間の裏側に少年がいたなどと、思いもしなかった。
「キミのせいじゃないよ」
ヴィクトルは、グラスを飲み干した。
終章まであと4回 →部屋 2
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