形の無い月 (34) 部屋 3

2021/10/22

二次創作 - 形の無い月

 そして今日、初めてミレーヌは、軽く笑った。おそらく3日ぶりに、笑った。
「私、もう悩むのに飽きたの。今さら、普通の生活なんて求めない。あなただって、知ってるんでしょ? 私が誰だか」
 ひと呼吸の沈黙の後、ヴィクトルが答える。
「知ってる。総統の娘だ」
 2人は、視線を合わせた。彼女は、グレーの瞳を見つめた。
「私は、お父様の所へ行くわ。自殺するくらいなら、足掻あがいて自分の道を見つけろと、昔オルガに言われたの」
 そうか、とヴィクトルはうなづくと、
「ゴメン、バスルーム借りるよ」
 と、ユニットバスへ消えた。
 彼は、泣いているのかもしれない。ミレーヌは想像する。あの家の後始末、あるいは襲撃者の死体の始末、オルガの葬儀の準備等、彼ひとりでは無いにしても、きっと様々な仕事があったはずだ。やる事に追われ、悲しむ暇も涙を流す暇も、無かっただろう。彼女は、十分に泣いていた。何も気にせずに、泣けるだけ泣く時間があった。

 しばらくして、彼が戻ってきた。目は少し血走っていたが、もう顔は平静に戻っている。上着のポケットから、バングルを取り出して、テーブルに置いた。
「オルガのバングル。もらってくれないかな。これはボクが高校1年の時、長期休みにアルバイトした金で蚤の市で買って、プレゼントしたやつ。オルガがキミを守ったのは、指令だからじゃ無いよ。オルガは、ボクへの愛情と同じくらい、キミに愛情を感じてた。キミに持っていて欲しい。ボクにはピアスが残ってるからね。⋯⋯もう、キミに会う事は無いと思う」
 蚤の市でバングルを買ったのは衝動買いのオルガでなく、ヴィクトルだったのか。ミレーヌは小さな謎が解けたような気がして、口角を上げた。
「ありがとう。オルガの形見として大切にする。私、オルガがバングル見ながら思い出し笑いしてるの、見てたわ。きっと可愛い弟が真面目な顔をして、財布と相談しながらアクセサリーを選んでいるのを想像してたんだと思う。でもヴィクトル、まだ耳に穴が開いてないわよ」
「これから、開けるさ」
 彼は自分の耳たぶを、指で弾いてみせた。2人で笑った。ミレーヌは、自分の赤いピアスを外して、テーブルの上に置く。

「これ、私の母の形見なの。写真も無くて、これだけ。⋯⋯私、自分を不幸と思った事は無いわ。お腹を空かせて街をさまよった事は無いし、寒さに震えて道端で眠る事も無い。誰かに暴力を受けて育ちもしてないわ。小さい時に親を亡くした人だって私だけでも無いわ。⋯⋯ただ、運が悪かったの。父がネクライムの総統だっただけよ」
 彼女は、ため息をひとつ、ついた。そして、また笑顔に戻って、尋ねる。
「ヴィクトル、お願いがあるの。最後の授業として、教えて欲しい事があるわ」
 彼女は椅子から立ち上がり、男の真横に立つ。
「何? 一番カッコいい漢字を知りたい? それは迷うね!」
 いつもの陽気な日本語教師が戻ってきた。ミレーヌは上体をかがめ、彼の耳元でお願いをする。
「オルガが愛していた弟なら、信用できるわ。⋯⋯私に男の人を教えて」
 彼は予想しなかった申し出に、彼女の顔を見る。ミレーヌは自分の唇をヴィクトルの唇に重ねた。唇からアルコールの匂いがする。軽いキッスを与えると、唇を離した。
「葬儀の日に不謹慎? でも私には、もう時間が無いの。深夜には迎えが来るわ」
 再び顔を近づけた彼女を迎えた彼は、やがて彼女の頬を自分の両の手のひらで包み込み、その目を閉じた。

 肌と肌が触れる、その感触とぬくもりが、心地良かった。肌を合わせるという言葉の意味を、自分を包み込む腕の優しさを、知った。ヴィクトルの腕枕にいたミレーヌは、体をずらして彼にキッスをする。唇を離すと、互いの目が合った。彼女は軽く微笑んだが、男は少し引きつったような笑みしかできない。もう、とうに外も暗い。
 ミレーヌはベッドからスルリと抜けると無言でバスルームに向かい、シャワーを浴びる。すべて、すべて、流して、落として、捨てた。男は彼女の後を追う事も無く、ベッドに起き上がり、軽く立てた自分の膝を抱えるように背を丸めていた。彼女は服を身に付け始め、最後に、ピアスとバングルで身を飾る。ベッド横のサイドテーブルに埋めこまれたデジタル時計の緑の光が、10時32分を表示していた。
「行くの?」
 続いた無言はヴィクトルの声で終わる。
「11時にロビーに迎えが来るわ」
 ミレーヌは化粧を直し、手早く、与えられていたスーツケースに着替えなどを詰め込んだ。準備ができた彼女は、彼に向き直る。すでに彼も服を付け、ベッドに座っていた。
「私、お父様に会うのは、いつも夜なの。明るい中で会ったのは、最初の1回だけ。もう記憶はぼんやりだけど。なんか、いかにもじゃない? そんな世界で生きてみるわ。あなたも私達が怪我しないように研究、がんばってね。期待してる。部屋のカードキーは明日のチェックアウトまでにフロントに返せばいいから」
 スーツケースから伸ばしたキャリーバーを右手で握り、ドアへ進む。ヴィクトルは彼女の姿を見送るためにベッドから立ち上がり、ドアまでの細い通路を視界に入れる。ミレーヌはドアノブに左手をかけた。
「ヴィクトル、今までありがとう。あなたの授業、とても楽しかった。日本語、忘れないわ。SA-YO-NA-RAサヨナラ
SA-YO-NA-RAサヨナラ、ミレーヌ。元気でね」
 ヴィクトルも日本語で別れを告げる。
 彼女は、ドアを開けた。自分が部屋に残る方になりたくなかった。
 最後にヴィクトルに微笑んだ。私の顔は、お母様のように優雅に見えるだろうか。
 そしてドアを、閉じた。
 残された男は、開いた両手で顔を覆い、しばらく動けなかった。

 閉じたドアノブを後ろ手にして、女は息を吐く。大丈夫、別れの時に泣いたりしなかった。大丈夫、日本語教師のヴィクトル・クーロンの事は忘れるわ。もうマンガは読まない。私が知っているのはネクライマーのヴィクトル・ワトーよ。
 3日間で考えた事。あの襲撃者達の事。自分が手を汚し、ネクライムで生きる事を決意した事。総合して出した、可能性。
『私を襲った男達は、お父様が手配したのではないだろうか』
 オルガは私を守る。オルガを慕う私が、彼女に危害を加えられた時、敵に刃を向けるのではないかという、予想。そして自分で納得して、自ら父の元に来るという、期待。
 マリエットの交通事故も、犯人は未だに捕まっていない。あれが、女2人にする計画だとしたら。 たとえ私が拉致されても、パン屋に助けさせればいい。拉致である以上、私が殺される事はない。
 私とオルガの間に深い愛情を育てさせた、長い長い時間をかけた、お父様の仕掛けだったのでは。そんな可能性を、彼女は思いついてしまった。
 何の証拠も無い。あるのは可能性だけだ。父に尋ねても、違うのなら「いいやノン」と言い、そうであっても「いいやノン」と言うだろう。
 その答えは、永久にわからない。
 オルガが、自分のための土台となっていたかもしれない、などとヴィクトルに言えるはずも無かった。いつか彼も、可能性に気づくかもしれない。あるいは、もう気づいているのかもしれない。そして、彼女は父の元を選んだ。
 3人でディナークルーズに行きたかったわ。心の中でつぶやくと、ミレーヌは涙を拭いて、ロビーに足を向けた。


終章まであと2回 →ヨーロッパ支部 

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