形の無い月 (29) 願望 2

2021/10/17

二次創作 - 形の無い月

「ハイ、ミレーヌ。聞いたよ、無事に進級、おめでとう。これで9月から2年生だ」
 土曜日、いつもの調子でヴィクトルが来た。7月に入り大学も夏休みだが、それぞれの教師の3週間のバカンス期間以外は、家庭授業がある。普段と変わり、各教科が週に2回となって。
「コンニチハ、ヴィクトル。あなたは、博士ドクトラ、あと1年がんばって」
「それを言うのか、コラ」
 日本語の「コンニチハ」に続いて出したセリフにヴィクトルが笑う。彼は大学1年の時に留年したので、1年ダブったと言っていた。その後、修士マスター博士ドクトラと進んだと聞いている。フランスでは高校でも留年は珍しくもないので、大学で留年したくらいは普通と言えた。
「ヴィクトルは修了したら、どうするの? 研究室に残るの?」
 彼は手をひらひらさせて、答えた。
「無理無理。フランスだってポスドクじゃ、まともに食っていけない。さりとて海外まで足を伸ばして研究続けても、将来を考えちゃうよね。どこかへ就職するよ」
「じゃあ、この日本語の授業は、他の先生になるのかしら」
 ヴィクトルのおかげで、日本のマンガに興味を持てた。少年少女向けのマンガのセリフは、漢字にひらがなのルビが振ってあるので、読み方や漢字も覚えやすかった。ただ、俗語も多かったが。
『いえいえ、週に1回のレッスンです。たいした手間ではありません。せっかくの高額アルバイトです。ぜひ続けさせてください』
 彼は日本語で話し、日本人のようにお辞儀をした。ミレーヌは、ぷっと吹き出す。
『それは、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします』
 彼女も日本語で返して、お辞儀をした。

「そう言えば、ヴィクトルって何歳?」
「聞いてない? ボクは今年で26になったよ」
 26歳か、ミレーヌは年令を思う。オルガはミレーヌをモスクワから連れてきた時、たしか23だった。彼よりもっと若い時から、私の手を引いてくれていたのだと、少し感傷的になる。それはもうすぐ自分が成人するせいかもしれなかった。
「博士まで修めると、なかなかの年令になっちゃうのねぇ」
「ティーンエイジャーのお嬢さんに言われたくないねえ」
 ヴィクトルは笑いながら答える。気を悪くしているわけでは無いようだ。
「あ、それからマリエット、辞めたの。交通事故で脚を折っちゃったんだけど、私ももう子供じゃないし、オルガと2人で大丈夫だから」
 オルガが父に出した提案は、了承されていた。今はまだ入院中だが、脚が治ればマリエットは自由に好きな所へ行ける。墓まで持っていく、秘密を抱いて。
「ああ、そうなんだ。彼女が休憩で出してくれるコーヒー、美味しかったのにな。残念だ」
 マリエットの年を聞いた事は無かったが、多分オルガより少し上だろうとミレーヌは想像していた。ミレーヌがこの家に来て、13年近い。マリエットは、きっと30代の後半だろう。考えるならば、人生で一番若くて美しい時を、こんな閉ざされた世界で暮らしていた事になる。
 オルガも、それは同じだった。むしろバカンスさえ無いオルガは、どんな若い時を過ごしていたというのだろうか。
 ミレーヌはオルガとマリエット、2人の誕生日を知らない。聞いた事はあるが「そんなものは気にしないでいいんです」とオルガに言われ、彼女達がいつバースディを迎えていたのか、わからない。
 恋人とか、いたんだろうか。そんな事に今さらながらに気づく。自分の事で手一杯で、彼女達の私生活はミレーヌの思考の外だった。

「ヴィクトルは、恋人とか、いる?」
「ん? 授業を始めずに、恋の相談? 語れるほど、多くは無いよ」
 そう言いつつ、ヴィクトルは楽しそうだ。
「恋多きパリ男パリジャンじゃ、無いの?」
「お嬢さん、そんなステレオタイプな目で男を見ちゃ、イケナイな。理系の女子比率の低さを知らないのかい? 高校の時に、それは考えなかったよ。理系を選んじまった。まあ、面白いからいいけどね。で、ミレーヌは大学でボーイフレンドでも、できたの?」
 ヴィクトルの言葉に、嘘ばっか、と思ったが口には出さなかった。彼を見ていればわかる。大学で知り合う機会が少なくても、どこかで気になる女性に声を掛け、お茶に誘う事など雑作も無いように思えた。日本オタクの変な人だが、あの蚤の市の時の、スリの子供に接する態度は、彼の人格を表していた。
 ミレーヌはと言えば、ピエトロの一件以来、男子とは距離を置いた。変に誤解されないように、そして巻き込まないように。それは男子に限らず、女子も同じだった。親しくなり過ぎず、学校のひと時だけ、軽い交友で笑える程度に。誰かを、何かの拍子で自分の置かれた境遇に巻き込むのを、恐れた。大学でもそれは変わらない。
 きっと「普通」に戻れた時、誰かと共に、思い切り笑えるのだろう。
「別に。今は勉強するのが、すべてよ」
 普通の少女のように素敵な恋を夢見る事は、12歳の時以来、無かった。

「才女のミレーヌさん、男性の理想が高そうだ。ボクだって彼女がいるなら、7月14日キャトーズ・ジュイエにセーヌ川のディナークルーズで、花火を眺めながら2人で乾杯したいよ」
 7月14日はフランスの建国記念日だ。フランス革命の象徴とも言うべきバスティーユ襲撃の日を記念して、国民祭としている。
 昼間から、しゃれた軍服を着た軍隊のパレードや空軍の航空ショー、公園ではコンサート、夜11時からはエッフェル塔からの花火がある。夏のパリは陽が長く、日没が夜10時ほどと遅い。ゆえにそんな遅い時間に花火となるのだが、日中から国を挙げて催される様々なイベントに、50万人とも言われる人々がそれらを楽しみに集う。
「それは素敵ね、別に恋人同士じゃなくても。7月14日は人がすごいし、交通規制もあるでしょ。テレビで観た事しかないわ。でもオルガと一緒に行ってもいいかも。今年は無理でも来年とか。間近で花火が見てみたいわ。何で今まで気づかなかったのかしら」
「おおう、それにはボクも参加したいね。男ひとりでディナークルーズは寂しすぎる。来年、ボクに彼女がいなかったらね」
 3人で花火を見たら楽しいかもしれない。今のヴィクトルに彼女がいない、という言葉は信用が薄かったが、ミレーヌは少し、嬉しい。
 ヴィクトルとならキスしてもいい、と思える程度には感情があった。それを自覚してはいたが、現実にしようとは考えなかった。3人で花火見物なら、不要な感情を気にせずに済む。
「そうね、オルガに伝えておくわ」
 機嫌良く答えたミレーヌに、ヴィクトルはバッグから新しい問題集を渡した。
「では始めようか」

→7月14日キャトーズ・ジュイエ 1 

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