壁掛けテレビの中では、アナウンサーと芸能人達がエッフェル塔を背景に、これから始まる花火の事を話している。7月14日の熱狂は、フィナーレを迎えようとしていた。
この家のテレビはサロンにしか無い。フランス人は食事をする部屋にテレビは置かないし、ミレーヌも自分の部屋には必要無かった。
正確に言えば、マリエットの部屋には彼女専用のテレビがあったが、職場からの退職が決まった今、病院から退院するまで、荷物はまとめて市内のトランクルームに彼女名義で預けられている。肌着などの着替えは、見舞いがてらにオルガとミレーヌで時々病院に持って行った。
画面に、地上からのライトでトリコロールカラーに染まったエッフェル塔が映し出される。
『さあ、いよいよです! 3・2・1、』
花火の司会者が叫ぶカウントダウンに、集まった群衆が大声で『3・2・1』と合わせる。
『皆さんに光の花束を!』
複数の破裂音と共に一斉に小さな何発かの花火が打ち上がり、BGMにオペラ『カルメン』の独唱『恋は野の鳥』が流れ、ショウが始まる。
塔の1階と2階、そして最上階からも花火が打たれ、塔はドレスをまとった貴婦人のように立ちつくしている。その背景に、次々と大きな光の輪が輝いた。
「どうして、おめでたい席の幕開けに、カルメンのハバネラなの? カルメンは最後、悲劇じゃない」
ソファーに座りながらテレビを眺めるミレーヌは、疑問を口にする。ハバネラはカルメンがドン・ホセを誘惑する歌だが、彼女は悲劇的な最期を迎える。
「まあ、オペラなので豪華に感じると言うか。むしろ悲劇の方が、ロマンティックな気がするんじゃないんですか。フランス人は恋愛、好きですし」
ミレーヌの右側に座り、同じようにテレビを観ているオルガが答えた。
『恋はボヘミアンの子ども
どんな法律も知らないわ
あなたが愛していないなら、愛していないなら、私が愛しているわ
もしも私が愛したのなら、お気をつけなさい』
スピーカーから高らかにメゾ・ソプラノの声が響いた。
ロシアで生まれても、人生のほとんどフランスで育ったミレーヌは、自分はフランス人だと思っている。しかしフランス人的な感覚は、まだよくわからない。やがて曲はポップスに変わった。
「きれいねえ。来年は、絶対、セーヌの船の上から花火が見たいわ」
テレビ画面の花火を眺めながら、ミレーヌは来年の事を思い浮かべる。すでにディナークルーズの話はしていた。オルガも、それは面白いですねと笑った。
「まだ1年も先ですよ。予約が可能な時期になったら、しておきましょう、3人分。でも2人になった方がムシュー・クーロンのためにはいいと思いますが」
「その頃は、ヴィクトルの博士修了が決まっているかどうかじゃない。彼女なんて作ってる暇があればいいわね」
想いを実現させる気はないが、彼の幸せを知らされるのも少し癪だった。
エッフェル塔は、この家から近い。直線距離にすれば3kmも離れていなかった。テレビのスピーカーが出す、打ち上げ花火の爆発音と、窓ガラスを震わせる大きな音は、若干ズレながら共演している。
「近くなのに、ここからは他の建物で見えないのが、くやしいわよねえ」
それはこの家に来て、最初の7月14日に、花火の音に驚いてオルガに尋ねた時から知っていた。どぉん、その後に小さくパラパラと音がするのに、美しい花火は見えなかった。
狭い土地に多くの人口を抱えたパリは、大昔から集合住宅がほとんどで、戸建てはひどく珍しい。高級住宅地とは言っても、アパルトマンの施設が豪華かどうかという違いだ。この家は、敷地の広い数件が固まった場所で、公道から伸びた私道の奥の突き当たりにある。周囲は高層アパルトマンが建っているため、エッフェル塔から近くても、その姿は見えない。
ミレーヌは、サロンの掃き出し窓を開けてみる。気持ちの良いゆるやかな風と共に、より大きく花火の音が響いた。昼間は夏の日差しが厳しいが、夜になれば意外と過ごしやすくなるものだ。
花火は見えないが、月は出ていた。だいぶ丸くて、もうすぐ満月だろう。
ソファーに戻り、テレビの花火を眺めながら、ジンジャーエールに柘榴シロップを垂らした、ノンアルコールのカクテルを飲む。もうワインくらい飲んでもいいのでは、とオルガは言うが、ミレーヌは18歳の法定年令まで酒を口にする気はなかった。
「30年くらい前までは、低アルコールのワインなら16歳でも飲めたんですよ?」
と言われても、現在の法律は18歳なのだから、法は法だった。ミレーヌはノンアルコールのグラスを口にする。
「んー。私、お酒が入って無くても、シャーリー・テンプル大好き」
グラスに入れたスライスのオレンジを口にくわえて、果汁と香りを楽しんだ。オルガはミレーヌに付き合って同じ飲み物だが、そこにウォッカを入れる。酒には強いらしく、その程度では顔色も変わらない。
彼女がミレーヌといる時に酒を飲むのは、ミレーヌの誕生日と、クリスマスと新年と今日くらいだ。それも控えめなので酔ったのを見た事は無い。その昔、二日酔いらしい事はあったが。
花火のショウは30分間続く。BGMと共に、美しい閃光が開いては儚く消える、その繰り返し。一瞬の美を求めて、花火師達は暗い夜空に花を咲かせ、人々はその様に熱狂する。
「もう窓は閉め⋯⋯」
言う、オルガの言葉が止まった。見開いた目が、窓を凝視する。オルガの顔に目をやったミレーヌは、彼女の視線の先を追う。ミレーヌのエメラルド色の瞳に、窓の外に男が2人、映った。どちらも黒ずくめの格好で、頭から目出し帽を被っている。
誰よ、と言葉を出す必要は無かった。それは明らかな脅威だ。
「窓を割る手間が省けたな」
前に出た背の高い方が言った。2人とも右手に拳銃があり、当然のように銃口はミレーヌ達に向けられている。この状況でオモチャであるはずが無い。
距離3m以内、窓側から見て私の陰になるオルガは、きっとソファーのキャスターを解除して、自分の銃を用意してる。ミレーヌは計算した。オルガに顔を向けると、彼女の瞼は軽く動き、そうだ、と答えた。
イチかバチか。ミレーヌとオルガはソファーの背もたれを飛び越えて背部に周り、ミレーヌは背もたれを思い切り引き寄せ、ソファーを男達への盾にした。
もちろん、下部の秘密の空洞も開ける。その間に銃声が4発、そしてすぐに3発、鳴った。銃声は映画のようにズキューンとは言わず、乾いた大きな破裂音が鼓膜に響いた。
「ぐっ」
男の、うめき声が聞こえた。
倒れ込むようにソファーの裏側にオルガが来た。彼女は撃たれたのか、這うようにミレーヌに近づく。ミレーヌの息が一瞬、止まった。声にならない声で、オルガ、オルガ、と彼女の手を取る。激しく打っていた自分の心臓が、恐怖で潰れてしまうほど、痛い。
テレビには花火の映像が流れ続け、外からも花火の音がする。
「大丈夫か」
「ああ、やっぱ護身用の銃くらいはあったか。これ着てても、結構、効くな」
男達が話している。つまり、奴らは防弾チョッキを着ているという事か、ミレーヌは青ざめるしか無かった。庭側にも防犯カメラは付いている。カメラ映像を見た時点で護衛が動けばいいが、それを見逃しても緊急コールは届く。護衛が来るまで、まだ時間がかかる。自分はどうすればいいのか。
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