アルマン・ブーシェは自分の体が誰かの両手で揺り動かされているのを感じた。眠りから覚めかけていると、次には彼の頬を指の腹が軽く2回叩いた。
「さっさと起きて! わたし、もう仕事に行くの!」
せっつく若い女の声に目を覚ますと、彼はゆっくりとベッドから上半身を起こした。胃の不快感と頭の奥がズキズキと痛むのは、確実に二日酔いだ。安酒をハイピッチで飲んだせいだ。そうだ、昨夜はこの女の部屋に転がり込んだと思い出した。彼は自分がベルトなしのジーンズを履いたまま、上はボタンのはだけたシャツ姿であることに、記憶を辿ろうとした。
昨日の土曜は、ミニコミ誌の取材で昼間からレピュブリック広場のストリート・ミュージシャンのイベントに出かけていた。イベント終了後には、気の合ったミュージシャン達が打ち上げに誘うので、付き合った。大衆居酒屋では大いに盛り上がり、関係者でもないアングラ演劇の自称女優だの、自称前衛芸術家だの、貧乏留学生だの、様々な人間が入れ替わり立ち替わり、輪に加わっては音楽論だの芸術論だの文化論だのを語っては、安酒を飲んでいた。
その中にいたひとりの女はアルマンが気に入ったらしく、2軒目のバーに流れた時も彼の横に座って何か話していた。その後は、あまり覚えていない。20代前半くらいで、小柄で愛嬌のある顔立ちだ。短い爪に赤いマニキュアの指が、彼の手の甲に触れたことは覚えている。悪い気はしなかったから、そのまま酔った勢いで彼女の部屋に来たのだろう。
「ほら、服着て、荷物持って、さっさと出て行って」
そう言うと女は壁側の小さなテーブルの上にメイクボックスを開けて化粧をしだした。彼女は、ずい分お怒りのようだ。そもそも名前も、エレーヌだかエロイーズだったか思い出せなかった。職場はショッピングモールの飲食店だと聞いたような気はする。アルマンはのろのろと立ち上がると、バスルーム借りるよと声をかけて、ひどく狭いシャワールームの洗面台の蛇口をひねった。冷たいままの水で顔を洗い、横に置かれていたプラスチックのコップに水を満たし、一気に飲み干した。少しはマシな気分になる。
部屋に戻ってシャツのボタンをかけ、ベッドサイドの床に落ちていた腕時計を見つけて腕にはめる。ベッドの脇には他に彼の靴と、仕事道具用の肩掛けのナイロンバックと、その上には黒い革のジャンパー、重しのようにベルトがかけられていた。バッグの中を確認したが問題はない。
身支度を済ますと、一応は女に声をかける。
「ゆうべはごめんね、帰るよ。さよなら」
「わたしがネックレスを外してる間に寝入るなんて、信じらんないわ。起きないし、ベッドから落とそうとしても重くて動かせないし。サイテー。二度と来ないでね」
気のない声と、振り返りもしない化粧途中の顔が、開いたメイクボックスの鏡に写っていた。まあ、多分そうなんだろうとは思った。昨夜はそれなりにスキンシップを交わしたような気はする。レティシアに十分に惹かれてはいても、身近に来た女を逃すほどの貞操感は持ち合わせてなかった。仕事が終わった解放感もあったかもしれない。
女の背中側からやさしく腕を回して、甘い言葉でもかければその後もあるだろうとは思えたが、朝になった今、そこまでの執着はなかった。
ゆうべは性欲よりも酔いの睡魔に負けたわけだ。それじゃあ怒るはずだと、アパルトマンの階段を降りながら苦笑した。地上階まで降りて、彼女の部屋が3階だった事を思い出したくらいだ。だが自分の荷物は、どこにも忘れず、盗まれず、持ってきていたのだから上等ではある。腕時計は9時5分前だ。
さて、ここはどこだったかと周囲を見まわす。朝の時間だから、そこここに歩いている人の流れに沿っていけば大きな通りに出るだろうと足を進めた。それにしても二日酔いで体調はすこぶる悪かった。
少し歩くと、見覚えのあるサン=マルタン大通りに出た。この辺だったのかと納得すると、顔をしかめて、こめかみを手で軽く抑えてみる。日曜でも開いてるドラッグストアがあったはずだと、二日酔いの薬を求めてメレ通りの方へ脚を向けた。日曜朝のこの時間、服飾店舗は開店前だし、人通りはまばらだ。だが細い道路を挟んだ向こう側の前方に歩道を歩く女の後ろ姿に、アルマンの目が止まった。背の高い、肩より長い栗色の髪の女がさっそうと歩いている。距離にして30m先くらいか。レティに似ているな、と思ったからだ。
昨夜の女の肌も覚えていないのにレティシアの事を思い出すなんて、バカな男だと自嘲する。こんな朝の時間に、彼女がここにいるはずがなかった。それでも彼の目は、前を歩く女を見つめていた。斜め後ろからの姿は、やはり似ている気がしたが、距離的に確信は持てなかった。ほどなく軽快に歩いていた女がガラスドアを押して、ひとつの店舗に入った。
気になるのなら女の後を追って、その店に入ってみればいい、顔を確認してみればいいとは思うのだが、行動に移すにはためらいを感じ、立ち止まる。とりあえず何の店なのか、前を通り過ぎてみればいいだろうと考え直し、歩き始めた時、その店のガラスドアから現れたのはレティシアだった。アルマンはとっさにすぐ脇の引っ込みのある店舗の陰に身を隠した。
なぜそんな事をしたのか、他の女の部屋からの朝帰りを見透かされそうな気がするからだろうかと自問した。店から出てきたレティシアは再び歩道を戻ってくるかと思われたが、しばらくしてもその気配がない。物陰からゆっくりと身を出してみると、遠ざかる後ろ姿だった。
彼女の店での滞在時間は、ほんのわずかだ。このまま後ろ姿を付けるのか、それとも何の店なのか確かめるかの二択であったが、アルマンは店の確認にした。とにかく、普段なら絶対に眠っているだろう時間に、彼女が何をしていたのかが知りたかった。
痛む頭を抱えつつ目的の店まで来ると、そこはドアの外側のみが木枠のガラス扉に『ビューロー ノマド』と金字で記されていた。扉の左の外壁は入り口ドア3枚分くらいの横幅しかなく、道に面して間口は狭かった。その外壁の方はすりガラスで、電話代行、私書箱サービス、レンタルロッカー、と業務内容とその利用時間を示した青い文字が道ゆく人々への広告がわりに貼り付いている。電話代行と私書箱は平日の9時から18時まで、レンタルロッカーのみが通年営業で、9時から21時とある。どれも最短利用は1ヶ月からだ。
アルマンはドアを押して中に入った。奥へ続くスペースが図書館の書架の脇を歩くように感じたのは、左側には金属製のロッカー列が4列ばかり等間隔で並んでいたからだ。180cm程度の高さのロッカー群は、店の入り口ではコートロッカーのような扉が1枚の大きい物から、次は上下二段のそれになり、部屋の奥に進むににつれて、個別ロッカーのサイズはだんだんと小さくなり、1列に8個もあるようなシューズボックス程度の小型の物に変わっていた。それを過ぎると日曜日の今日、目の前にはシャターが降りて行き止まりだ。平日はこのシャッターが上がっていて、電話代行などの事務所になっているのだろう。
つまりレティシアは、レンタルロッカーにいたという事だ。ひとり暮らしの彼女が、部屋に置いておけないほどの服や荷物があるとは考えにくい。ここの事務所が時間外な以上、当然、契約済みのロッカーという事だ。そしてあの短い滞在時間や彼女が大きな荷物を持っていなかった事から考えれば、預けるにしろ取り出すにしても、それは小さい物だろう。しかも普段なら彼女が眠っているような早い時間、ロッカーの利用時間は朝9時からと表示されていたのだから、つまり利用できる開店すぐの時間に来たという事になる。
一体、それはなんだったかとアルマンは考え込んでしまった。
結局、その後はドラッグストアを探して薬とミネラルウォーターを買い、その場で飲んだ。昨日、打ち上げに合流する前にカメラ店にプリント注文を出していたので、写真を受け取って帰路につく。レティシアのアパルトマンの前までも行ってはみたが、もしかして彼女も帰っていて、眠りについたのかもしれないと、窓を見上げるだけにした。
自分の部屋に近づいたあたりで、道路脇のゴミ箱の蓋の上で、毛繕いをしているシピを見かけた。名を呼ぶと、すぐに寄ってきて彼と共に部屋の中に入って来る。
「お姫さまも、朝帰りなのかい?」
シピの喉を撫でると満足げにゴロゴロと音を鳴らす。キッチン棚から猫用のドライフードの小袋を取り出して軽く振ってみせると、よこせ、というようにシピは軽く鳴いた。中身を皿に開け、水用の浅いスープ皿も横に置いておく。飼っているつもりはないが、時々来るかわいい子へのサービスだ。シピもまた、飼われているつもりはなさそうで、数日来ない事もある。多分、他にも別宅があるのだろう。
「少し眠らせてくれ。疲れたよ」
シピにそう伝えて体をベッドに横たえた。薬を飲み、水分補給もしたので、頭痛は少しは薄らいだが、体にだるさが残っている。
軽く食事を終えたシピが、ベッドの上に飛び乗ってきた。アルマンの脚元付近のくぼみに体を入れて、丸くなる。
「そっか、お前も眠いのか」
温かい小さな塊が、薄い布団を通して伝わってきた。
アルマンは昼過ぎに起き出した、というかシピに起こされた。彼の胸元近くを左右の前脚で交互に何度か押されて、起こされたのだ。彼が起きだすと、シピは素早くベッドから飛び降り、道に面した窓の下に行き、アルマンの顔を見ながら軽く鳴く。
「はいはい、外に出たいわけね」
表の道路に面した窓は、普段は防犯のために閉め切りだ。窓を開けて、外側の鎧戸も開けねばならない。起き抜けで、部屋の玄関ドアと建物の玄関ドアを開けてやるよりかは、まあマシかと思っての事である。シピは窓枠に飛び乗り、さっさと出て行った。
お姫さまのお出かけか、と開けた窓を再び閉める。
朝食の途中で、レティシアに電話を入れてみるが、呼び出し音のみで彼女が出ることはなかった。あの貸しロッカーを出てから、そのまま外出しているのだろうか。それにしても、留守番電話サービスにも切り替わらないのが不思議だった。ひとり暮らしなら、普通はセットしておくものじゃないのか、この電話番号は本当に彼女の部屋のものなんだろうかと、怪しい気分にすらなってきた。
受け取った昨日の写真をチェックして、ぼちぼちと取材記事をまとめてタイピングしていく。こんなに早く手をつけるつもりの仕事ではなかったが、記憶が新しい内にざっと内容をまとめたかった。それと同時に、今朝見たレティシアの謎の行動と通じない電話に、妙な不安を感じて苛立つ気分を忘れるためでもあった。
まあ、こんなもんかなと椅子の上で両手を挙げて伸びをした時には夜の11時を過ぎていた。ちょうどその時、電話が鳴った。上げた受話器からは待ちかねたレティシアの声が届いた。
「アロゥ、まだ寝てないわよね。私は、ちょっと休憩中よ」
ホテル内の公衆電話からのようだ。アルマンは朝の不可思議な出来事を尋ねたい誘惑にかられたが、ぐっとそれを抑えた。電話ではなく直接顔を見て、その反応込みで聞きたいからだ。
「どうしたんだい? わざわざ休憩時間に電話をくれるなんて」
「ふふふ。このまえのドライブのお礼に、今度は私からのサプライズ。明日は休みを替わってもらったの。空いてる?」
明るい声の彼女に安心する。明日は他人との予定はなかったので問題ない。
「大丈夫さ。きみの部屋にご招待していただけるとか? 本当なら、今すぐにでも会いたいよ。明日が休みなら、今日の仕事上がりにバス停に迎えにいくよ。それでいいじゃないか」
「こらえ性のない人ね。ダメよ。サプライズにならないじゃない。あ・し・た。じゃあ明日の15時に電話するから。またね」
用件だけ言って電話は切れた。一時でも早く、と望んだアルマンの提案は却下された。向こうから予定を作ってくれたのだから、それに従うのが無難なのかもしれない。15時という遅い時間は気に入らないが、もしかしてサプライズのために仕組んだ何かのために、朝の不可解な行動はあったのかと思えなくもない。午後の電話に出なかったのも、それに関係していたのかもと、普段は冷静な彼女の茶目っけにアルマンは楽観的な解釈もしてみた。
「仕方ない。まあ、明日か」
彼は原稿の仕上げに取りかかっていた。
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