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夜の爪あと (23) 招かれざる客

2025/08/01

二次創作 - 夜の爪あと

 開店前のバー『銀の猫』、準備作業に入るにしてもまだ少し早く、習慣でカウンター近くのボックス席に陣取って新聞をながめていたチーフバーテンダーのジョセフは、突然の珍客の相手をせねばならぬ事態になっていた。
「⋯⋯いつもミステリーの話ばかりしてるわけじゃないし、私生活なんて大した事は知りませんよ。常連のお客さんってだけですから」
 ホテルマネージャーに案内されて店に入ってきた私服のふたりの中年男は、ジョセフに警察バッジを見せていた。案内が済んだマネージャーはさっさと店を後にし、自分の仕事に戻ってしまった。珍客のひとりは痩せ気味の長身で、もうひとりは中肉だがやや腹が出ている。さしてパッともしないジャケット姿だ。
 ジョセフが答えたあたりで従業員用のドアが開いて、レティシアが挨拶をして店の中に入ってきた。
「ああ、ちょうど、昨日接客してたバーメイドが来ましたよ。レティ、パリ市警だ。ムシュー・ラギエの事で聞きたいそうだ」
 自分の口から言うことではないと思い、ジョセフは簡単に要件だけ伝えた。ボックス席の横に立つふたりの男に、もういいですかと尋ね、痩せ気味の男が軽くうなずくと席に置いていた新聞を持ち上げ、カウンター内に入って行った。少し早いが、開店準備のカウンターの清掃を始める。聞き耳を立てなくても、この距離なら会話は十分に聞こえる。
 レティシアは男たちに近づくと、なにかありました? と口を開く。中肉の男が応えた。
「開店前の忙しい時間に、すみませんね。ちょっとした確認作業です。昨夜、こちらの客であるジェローム・ラギエ氏が亡くなりました」
 彼女はえっ、と小声で言ったきり、見開いた目と小さく開いた口が、しばらくそのままだった。

「どうして⋯⋯交通事故とかですか? 轢き逃げ?」
 わざわざ警察が聞き込みに来たのだから、なにかしらの事情なのだろうと察しての質問だろう。
「いえ、昨夜10時ごろ、サン・マルタン運河の水辺に降りる階段で仰向けに倒れているのが発見されました。階段で足をすべらせたようで、後頭部に外傷がありました。血液からアルコールが検出されています。所持品からこの店のレシートが出てきましたので、念のために話をうかがってます」
「サン・マルタン運河で⋯⋯」
「ラギエ氏は、何時ごろに店を出ましたか?」
「7時半は過ぎていたと思います。あ、レシートがあるんでしたら、印字されてますわ。その時間が会計された時間ですから」
「昨夜のラギエ氏は、どんな様子でしたか?」
「おひとりで、いつもと同じようにお酒を楽しまれてました。たしかカクテルを3杯。でもこれもレシートに注文の品名は出てますわね」
 返事の代わりに中肉の男は軽くうなずく。
「スーツにネクタイで、いつも早い時間にいらっしゃいますから多分、お仕事帰りに寄られているのだと思います。⋯⋯でも私はまだこの店に来て日が浅いので、それ以前がどうかは存じません」

 自分に尋ねたのとほぼ同じ質問ばかりだな、とジョセフはカウンターの天板を拭き掃除しながら聞いている。このところ急に来店頻度の増えたラギエだが、それがレティ目的である事くらい、十分承知している。だがそれは個人的な事だ。わざわざ警察に話す必要は感じなかった。他のバーテンダーやウェイター達も出勤し始め、レティシアとふたりの中年男の存在に奇妙な顔をしたが、ジョセフは「気にせず、仕事してくれ」と言うように、顔を横に振った。
 痩せ気味の男は、手にしたビニール袋に入った本の表紙をレティシアに見せた。
「この本を知ってますか? 『運河に沈む声』って、ミステリーです。最近、読んだとか、聞きませんでしたか?」
 彼女はポケットサイズの本にさっと目をやると、存じませんと答えた。
「あの、何か関係がありますの? ムシュー・ラギエが本の話をされた事はありませんわ。私はオペラについて、お話していたくらいです」
「オペラ⋯⋯ですか」
 唐突に出てきた縁のなさそうな単語に、ふたりの男たちはやれやれという顔をする。
「では帰り際の様子は、どうでしたか? 酔って体がふらついていたとか」
 彼女は少し考えた後、答えた。
「いつもより陽気な感じはありました。軽く酔ってらしたのかもしれません」
 ジョセフは以前、ラギエ氏の住まいはバスティーユの近くだと聞いた事がある。サン・マルタン運河なら、帰りがけの散歩なんだろうと、さっき警官に話したところだ。結局、ジョセフに聞いたのと同じ質問だけして、ふたりの男は帰っていった。
 珍客が帰るとレティシアはしばし、立ちすくんでいた。顔をうつむけて、視線を床に落としていたが、ジョセフが「レティ」と声を掛けると、顔を上げてカウンターの方に近づいた。刑事の質問は一応の確認事項、という感じで他のスタッフ達には特に話を聞くわけでもなかった。事件と事故の両面で調べていると言っていたが、あの様子じゃ事故に落ち着くんだろうなとジョセフは感じていた。

「なんだかなあ。酔って階段から脚を滑らしたのかね。発見したのは、暗がりでイチャイチャしようとしてたカップルだってさ。驚いたろうなあ。あの本、サン・マルタン運河が事件現場とかの話かね? 近所だけど帰りに『セイチ・ジュンレイ』でもしたんかな? 昨夜は少し雨も降ったらしいしなあ。階段って、上りより下りの方が事故が多いらしいよ。いい人だったのに、運が悪かったんだな」
 ダスターを持ってカウンターの外に回り、椅子の座面を拭き始めたレティに、ジョセフはなぐさめの言葉をかけてみる。せっかく自分についた客だ。多少は友好な気持ちもあったかもしれない。客の目的がなんであれ、上手く営業していれば細く長く通ってくれるかもしれない。就業前にその客の死を知るなんて、気分は良くないに決まってる。
「⋯⋯人生って、わからないものですね。ゆうべ、ムシュー・ラギエは禁煙したいからって、私にタバコの箱を預けてくれたんです。健康のために禁煙したかったのに、その日に死んじゃうなんて⋯⋯皮肉すぎる」
 抑揚のないレティシアの声に、ジョセフは、へぇと答えたが、まあ何かやってるよなとは気づいていた。
「同情はするけど、ぼんやりして、高いグラスを割ったりはしないでくれよ」
「ええ、大丈夫。気持ちを切り替えて仕事しますわ。⋯⋯帰ってから、預かったタバコを吸って、しのんでみます」
 ラギエは残念な終わり方の人生だったが、目当ての女がしのんでくれるのは、せめてもの救いなのかもな、とジョセフはカウンターに目を落とした。
 営業中は薄暗い中で気づきにくいが、レティは美人だ。だが客という者は、意外とスタッフの顔など見ていないものなのだ。会話を交わすような常連になれば別だが、宿泊客などはスタッフの顔を見て注文してはいても、それは人間として認識はしていても、個人として認識しているわけじゃない。それは焦点の合っていないレンズでぼんやりと見ているようなもので、相手の顔は記憶に残らないのだ。
 それでも中には目ざとく、レティに気のある視線を送る客もいる。だがこの店自体はホテルの格式上、露骨に口説いてくるような客はいない。先月だったか、40歳くらいの上司とその部下という感じの男3人が来て、豪勢に高い酒とつまみを消費してくれたが、上司らしき男はレティシアに目を付けたかのようだった。それでも声をかけるわけでもなく帰った。次の時にはひとりで来たが、カウンターで大人しく高い酒を飲んで彼女を眺めているだけだった。
 ラギエとも親しく会話はしていたようだが、それはバーメイドとしての節度のある対応だったと、ジョセフは長年の職歴からそれを確信していた。
「そうそう。今日も気分よく店を開けようじゃないか!」

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