上弦の舞姫 (2)

2021/10/27

二次創作 - 上弦の舞姫

 ひと月が過ぎた。部屋の洒落たバーカウンターは、とっくに設置されており、その奥の棚には酒瓶とグラス類が並んだ。さしずめ、ペントハウスのバーの中に職場があるかのようだ。ジタンダはバーテンダーよろしく、主人の求めに応じて酒を注ぐ。
 ミレーヌは、あの夜の事など忘れたように業務をこなしている。そうであればルードビッヒも、躊躇ちゅうちょなく、計画を立て、命じた。前任者は病の床で指令を出していたせいか、やや守備的な運営になっていて、それを攻撃的な路線に変えた。
 それゆえ、夜になり、自室のドアの向こうにスティンガー・ウルフを認めた時も、緊急の用だと心が身構えた。
「ルードビッヒ様。至急、お知らせしたい事がございます」
 入れ、とウルフを招き入れると、自身はソファーに腰を降ろした。ブランデーグラスを手前のローテーブルに置き、ウルフの次の言葉を待つ。直立のまま、ウルフは報告する。
「一昨日、キャットは非番でした。シティホテルのケーキバイキングに出かけたようで、まあそれは女ですから甘い物が好きというのはいいんですが、そこでミレーヌ様を見かけたそうです。男と一緒にロビーを通り過ぎて行き、その時の様子を不審に思って後を付けたという事です」
「ミレーヌもその日は所用で休みを取っていたな。不審、とは?」
 ルードビッヒは、あの夜の事を思い出していた。やはり、何かあるのかと。

「親密な雰囲気があったそうです。女の勘と言うヤツだったんですが⋯⋯こちらを、ご覧ください」
 ウルフに手渡されたファイルを開くと、ページには貼られた何枚かの写真と、その脇に時間と場所が記されていた。ホテルの部屋のドアを開ける男と女、ドアから出てくる男と女、別々にタクシーで去る2人。その女はミレーヌだ。
「スティンガー部隊は、非番の時でも必要に応じて使えるよう、複数のアイテムは持ち歩いています。それは小型カメラで撮影した物です」
 ウルフの説明に、ルードビッヒは無言で写真を眺めた。ページをめくると、男の身上調査書があった。
「ホテルの部屋に滞在したのが、1時間40分あまり。その男を調査いたしましたが、半年前から我がネクライムとの取引がありました。マネー・ロンダリング用の絵画を扱っている画商です」
 フランコ・イケダ、34歳、ギンザの「ギャラリーイケダ」経営。既婚、子供無し。その他、細々としたデータが記されている。
 画廊の前で隠し撮りされた写真の男は、彫りの深い顔立ちで、濃い眉毛の下の目は少し垂れていたが、それが顔に甘さを出していた。客に不快感を与えないためか短めの黒髪は、しかし洒落たように毛先を遊ばせていて、似合っている。柔らかいラインのスーツが美術品を扱う優美な風情を男に与えていた。
「敵対する組織との隠れた繋がりを調査しましたが、それは見当たりませんでした。今まで月に1度か2度、複数のシティホテルを利用した事がわかっています。ミレーヌ様との関係は⋯⋯不明です。ただ、ネクライムとの取引のある男です。個別に会うなど、ミレーヌ様に不審な点が認められます」
 想像はできたが「不明」と、ウルフは事実だけを述べる。
「そうか。ミレーヌを呼んでくれ。お前は下がっていい」
 ウルフに命じると、ファイルを閉じた。開いておくのは不愉快だった。妻帯者ならサングラスくらい掛けとけ、とは思った。しばらくして、ミレーヌが訪れる。

「こんな時間に、何かしら? 私はコール・ガールじゃなくてよ」
 いつもの調子で現れたミレーヌは、ルードビッヒの向かいの肘掛け椅子に腰を降ろし、脚を組んだ。挑発的なスタイルの昼間と違って、部屋着なのかヒダの細かい紺色の足首までの裾の長いドレスで、その脚は見えない。襟ぐりは左右に広く鎖骨は見えるが、胸元は開いていなかった。そして手首にレースの付いた長袖で、腕さえも見せない。
 ルードビッヒは、ブランデーの香りを楽しみながら、
「ギンザの画廊の男は、何だ? マネー・ロンダリングに乗じて、このネクライムから横領でも考えたか? なかなかの度胸じゃないか。密談にしてはホテルの時間が長いがね」
 前置きも無しに、女の前に情報のカードを開き、その顔を眺めながら出方を待つ。すました顔が慌てて弁明するなら見ものかもしれない、と口の端が上がりそうになる。
 ミレーヌは、ま、と少し驚いた顔をして、ローテーブルの上の閉じられたファイルに、ちらりと目をやった。
 右肘を肘置きに付け、その手でほおづえをつくと、笑みを浮かべてルードビッヒに視線を合わせ、微笑んだ。
 そして、ひと言、甘い声で答える。
「私の愛人アマンよ」
 ストレートで、明快な答えだ。
「別に変な事じゃないでしょ。いい年した大人なんだし。マネー・ロンダリングのひとつとして、画商を選定する時に知り合って、関係を持ったわ。でも仕事とは線を引いているわよ」
 悪びれる事も無く、女は語る。
「彼、ヨーロッパの具象画を中心に扱ってるの。私もパリにいたから美術館には色々行ったけれど、素人が見ているだけじゃ、良くわからないでしょ。作品についての見方を教えてもらったりして、とてもいい勉強になったわ」
 そうかね、と彼は酒を口にする。こうもあっさり、返答が来るとは思わなかった。

「それに美術品を扱うだけあって、女の扱い方も丁寧だし⋯⋯上手よ」
 潤んだ目を伏せぎみに、そうまで言った。ルードビッヒは、軽く咳き込んだ。
「線を引いている、とは言っても男はそうは思わんだろう。それに既婚者じゃないか」
 その問いに少しの間の後、ミレーヌは、ぷっと吹き出し、自分の口を押さえる。
「嫌だわ、ネクライムの幹部が道徳を語るの?」
 くすくすと笑いながら横を向いて、当然の事を言う。まったく、その通りだ。
「私の部下が、つまらん男にいいように遊ばれているのが不愉快なだけだ」
 そう答えてみたものの、これは理由になるのだろうかと彼は自問する。
「あら、セクシーでいい男よ。それにどうして男の方ばかりが楽しんでいるって事になるの? 私だって十分楽しんでるわ。むしろ既婚者の方が後腐れが無くて、いいんじゃない。お互い、納得ずくの男と女の関係だわ。この前は彼の方が時間が無かったけど、いつもなら、もっとじっくり⋯⋯」
 語る女の声を「もういい」と遮った。その言葉に彼女は勝ち誇ったように宣言する。
「私のプライベートには口を挟まないでちょうだいね」
 ミレーヌは、再び彼の目をとらえ、
「あなたには、関係の無い事よ。ルードビッヒ」
 と、しっかりとした口調で釘を刺した。
「話は済んだわね、休ませてもらうわ」
 そう言い、彼女は席を立つ。
「ああ」
 ルードビッヒが今言えるのは、それだけである。

 彼は女の後ろ姿を目で追った。きっちりと服に包まれた身体とった髪で、うなじの肌だけが目に入る。写真の男が後ろから彼女の肩に手を掛け、その細いうなじに唇を這わせるのを想像した。女は快楽の吐息を漏らす。
 ドアノブを引き、部屋から飛び立つ女を、男の身体が追う。彼は右開きに内側に開かれた扉を、左腕を伸ばし、女の頭越しに押し閉めた。
 カチリとドアの閉まる音がした。
「なあに?」
 首を回したミレーヌは、目の前に立った彼の顔を見つめた。自分で動いてしまってから、ルードビッヒは『してやられた』という気になったが、まあそれもいいかと納得する。今こうして扉に手をつき、女を閉じ込めているのは自分自身なのだから。
「休むには、まだ時間が早いだろう」
 平然と口にした男の声に、見つめる彼女の瞳は、その思惑おもわくを見抜く。
「関係ある事に、したいの?」
 互いの目が、相手の真意を探るように見つめ合い、やがて男は口元を軽く上げた。
「そんなところだ」
 ルードビッヒは、右腕で女のその身体を抱き寄せる。その腕が拒否されない事を彼はすでに承知している。
「それなら、いいわ」
 ミレーヌが笑みを浮かべると、右手に持っていた小さなクラッチバッグは、力を抜いた指からこぼれて、床に落ちる。彼女は、するりと両のかいなを彼の首に回して、近づく唇を待った。

「朝まで一緒なんて、野暮やぼよ。下の者に示しがつかないでしょ」
 そう言って、ベッドから抜け出したミレーヌは服を付け始めた。下ろした髪が肩から背中に掛かっている姿は、ルードビッヒに征服の余韻を与えた。彼の目は細まり、唇の端が少し上がる。
「この前の礼に、次は私がいいワインを用意しておこう」
 ベッドに残った彼は、ミレーヌの背中にそう声を掛ける。振り向いた彼女は、笑みを浮かべて、
「嫌だわ。何を言っているの? こういう時、通うのは男の方よ」
 そう言うと、間仕切りを超えて姿を消した。木彫の間仕切りは、最初の応接セットとの間にある。部屋の入り口ドアに落ちていたバッグを手に、女が戻ってくる。
「なるほど⋯⋯そうしよう」
 先ほど、たしなめられた男はそう答えた。
 バスルーム借りるわ、と彼女はベッドの横の壁のドアを開ける。
 ホテルのスィートルームのようなバスルームの洗面台は、広かった。ミレーヌは鏡の前で乱れた髪を手櫛で整え、まとめてアップにするとヘアピンを刺した。いくら夜とは言え、自室に戻るまで廊下で他の者に会わないとは限らない。そして化粧を直す。
 部屋に戻ると、男は、まだベッドに横になっている。彼女はベッドに腰掛け、彼の髪を撫でようと右手を伸ばした。しかし彼は彼女の腕を取り、そのままベッドに倒し込む。
「あら。髪、直したのに」
 そう言いながら、ルードビッヒを見つめる。
 彼は首筋から、うなじにかけて彼女のその肌を唇でむように這わせた。
 男は、彼女の耳元でささやく。
「もう、他の愛人アマンは、いらぬだろう」
「そうね、いらないわ」
 吐息の中で、女が答えた。


「ええミレーヌ・サベリーエワよ。急で悪いけれど、あなたの画廊との取引は終了させてもらうわ。いいえ、あなたに不備があったわけじゃないの。ボスの命令で画商を変える事になったの。ええ、仕方ないのよ。ごめんなさいね。頼んだ絵も、あきらめるわ。ええ? 嫌だわ、何を言ってるの? そう、これでおしまい。楽しかったわ、ありがとう。お元気でね」
 ミレーヌは、流れるように言葉を紡ぐ。司令室の電話機は、以前は何の変哲も無いビジネスフォンだったが、今ではルードビッヒの趣味で、白い樹脂と金属で形作られたアンティーク調のプッシュフォンに変わっていた。薄い四角い本体から真上に伸びた金属の先の二股のフックが、優美なカーブを描いている。彼女はそのフックに、装飾を施された受話器を置いた。
 その時スティンガー・ウルフは、警視庁内で予算が通り製作が決定した、機動メカ分署マグナポリスについての極秘内部資料を主人に差し出す所だった。耳に届く言葉で、昨夜の懸案が解決した事を承知する。
 ルードビッヒは、満足そうに今日もワインを口にした。



(了)

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