目が覚めた時、見つめる天井が知らない景色だった。ここはどこなのか。天井を眺めながら、ミレーヌは働かない頭で思い出そうと試みる。しかし答えが出る前に、頭の上から声が降ってきた。
「おはようございます。朝です」
覚えのある声にベッドから身体を起こすと、開かれたカーテンの明るい窓を背景に、オルガ・ワトーが立っていた。
「もう9時です。お疲れだったのですね。とても良く、お休みでした」
昨日の夜、この家に来ていたのだ。母の葬儀、それが夢ではない事を思い知らされて、じわりと目に涙がにじむ。オルガはひざまづき、ハンカチでミレーヌの目をそっと拭った。
「顔を洗いましょうか」
シャルル・ド・ゴール空港からタクシーに乗った後は記憶が無い。ミレーヌは疲れて眠ってしまったからだ。オルガに促されて、階下へ降りる。緩やかな螺旋(らせん)階段を降りた先は玄関ホール、玄関ドアの反対側にドアが離れて2つあり、右のドアは両開き、左のドアは片開きだった。そして左のドアが開けられた。
「こちらがダイニングです。右のドアは応接室。古い家なので分かれているのです。それから、あちらが書斎、それにトイレと洗面所。後で探検してみてくださいね」
オルガはダイニングの扉の廊下を隔てて向いのドアと、降りてきた階段横にあるドアを指差した。
初めて見た階下の部屋は、明るくモダンな雰囲気だった。母と暮らしていたマンションの部屋はインテリアがゴシック調に整えられていたが、ここは現代的でシンプルである。
先ほど降りてきた階段の手すりの欄干はアール・ヌーヴォー様式で、楕円に渦巻いた模様があった。無論ミレーヌに建築様式の知識は無いが、明らかに雰囲気が違う事だけは認知できた。それが自分の世界が変わった事を教えていた。
大きな掃き出し窓から差し込む光は、モスクワよりずっと明るい。その窓枠は、上部に植物を模したような模様がある。窓の外は小さな庭のようで、だいぶ葉を落とした木々が目に入った。
ダイニングテーブルには子供用の座面の高い椅子も用意されていて、座れば卓上にはクロワッサンをひとつ乗せた皿と、チョコレートドリンクを注いたグラスがあった。テーブルの向かいにオルガが腰を下ろし、その前にはコーヒーカップと、手帳が1冊置かれている。
「せめて、そのくらいは食べてください。体が持ちません。悲しくてもお腹は空くのです」
食べたい気持ちにはならなかったが、言われた通りにクロワッサンを小さな口に運んだ。この人は誰なんだろう、ゆっくりと咀嚼しながら、オルガを眺めた。
窓から入る明るい光は、少し彼女を柔らかく見せた。昨日と同じように髪は後頭部でアップにまとめているが、今日は薄手のクリーム色のセーターを着ているせいかもしれない。
あるいはここ数日間の激務と睡眠不足で目の下にできていたクマが、前夜からの熟睡で消えたからかもしれなかった。母ほどではなかったが肌は白く、きめは細かかった。意志のある目は灰色がかった緑の瞳をしていた。
クロワッサンを咀嚼しているうちに、少女の胃は段々と動き始めた。くー、と小さな音がする。お腹が減っていたんだと、少女は驚いた。言われた通り、悲しくてもお腹は空くんだ、と思う事自体が、悲しかった。チョコレートドリンクをひと口、飲んだ。
オルガは手帳を開いて、ペンを持った。食べながらで結構です、と言ったところで初めて会った時の事を思い出した。まだ5歳の子供なのだと。
「食べながらで、いいです。わかりやすいように話します」
ミレーヌはうなずいて、それを返事とした。オルガの目の前の、お人形のように愛らしい少女は、出会ってから今まで彼女に対して、まだ一度も声を発していなかった。それは私をコミュニケーションの対象として認めていないという事だろう、とオルガは判断した。突然、母が死んだと告げに来て、見知らぬ国へ連れてきたのは彼女なのだから。
「私の名前は覚えてますか? 言えますか?」
オルガは待った。少女が自分の名前を口にするのを。しばしの沈黙の後、小さな声が応えた。
「⋯⋯オルガ」
答えに満足し、初めてオルガはその口角を上げる。これでスタートラインだ。
「ありがとうございます。オルガ・ワトーです。ここはフランスのパリ16区の南の方です。これからは私と、この家で暮らします。急だったので今日は無理ですが、3日後にはメイドが来ます。ロシア語も話せる人にしました。ロシア系のフランス人もいますので。それから1週間後には、ロシア語とフランス語の家庭教師、教えてくれる先生です、ここへ来るようになります」
「ふらんすご? 何?」
会話らしくなってきた。オルガはコーヒーを飲んだ。
「フランス人が話す言葉です。ここはフランスです。暮らしていくためには、フランス語を覚えなくてはいけません。それと覚えている、ロシア語を忘れないように、です。私のロシア語は発音が悪いです。読み書きも上手くありません」
「どうして?」
子供と違って、大人は何でもできると思っていた。ミレーヌは、少し残ったクロワッサンを皿に置いてオルガを見つめる。好奇心のある子だ、とオルガは思った。別に話しても問題無い。
「私の父はロシア人で、母はフランス人です。だいぶ前に離婚して、私は母と暮らしました」
「りこんって、何?」
「結婚を、やめる事です」
その時、ミレーヌに母の言葉が思い出された。
「お母様は、お父様と、りこんしたの?」
そちらに話が行ってしまった。適当に流しておけば良かったのか、オルガは判断の誤りを悔やんだ。
「それは、私は知りません。私が知っているのは、お父様は貿易商で世界中を回っているという事、あなたをレディに育てようとしていると言う事だけです」
「お父様は、どこ?」
しごく、真っ当な問いだ。しかしそれには答える事ができない。
「わかりません。いつか、お会いできると思います」
そう答えるしかない。
「お母様と同じ事、言う」
少女は口をへの字に固く結ぶと、うつむいた。母の記憶が蘇る。オルガはその気配を察した。
「ごめんなさい、私が知っている事は少ないのです」
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